石井 佐兵衛|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052224 印刷用ページを表示する 掲載日:2025年1月27日更新
石井 佐兵衛
いしい さひょうえ
建築・彫刻を習い、立川和四郎の高弟となる。満願寺の手洗閣の彫刻等が有名。その足跡は近畿・中国・関東に及ぶ。
生年月日 | 1813年(文化10) |
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没年月日 | 1870年(明治3)10月29日 |
関連地域 | 明科(潮) |
職業・肩書 | 彫刻家 |
活躍年 | 江戸時代以前 |
ゆかりの分野 | 文化(芸術) |
経歴
明科潮に生まれました。20歳前後の時に、松本宮村町の工匠伊藤吾助康信の門人、立石清三郎朝信の門下となり、建築や彫刻の技量を磨きました。佐兵衛が書いた設計図や図案には、「安次郎安忠」・「康二郎康忠」・「佐兵衛」の三種の名前を使用しました。その後、諏訪へ行き、第三代立川和四郎の門弟となり、立川流はもちろん、大隅流、他の流等も研究しました。その技は、師と見間違える程に上達し、師に従って諸国を歴遊し、近畿・中国に及びました。師と共に東照宮の修理にも従事したといわれましたが、1870年(明治3)10月29日に、中禅寺湖畔で病気のため亡くなりました。豊科吉野神社の制札建築彫刻・穂高牧の満願寺の手洗閣の彫刻・下生野五社大明神の拝殿・会田本町の舞台・雲龍寺大黒天の彫刻・天保時代の秀れた精密な設計図や図案が約100枚等、制作した彫刻や書いた設計図が多く残っています。
略歴譜
1813年(文化10) | 明科潮に生まれる。 |
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松本宮村町の工匠伊藤吾助康信の門人、立石清三郎朝信の門下となり建築や彫刻の技量を磨き上達する。 | |
天保年間 | 佐兵衛が書いた設計図や図案には、「安次郎安忠」・「康二郎康忠」・「佐兵衛」の三種の名前を使用する。 |
諏訪へ行き、第三代立川和四郎の門弟となり、立川流はもちろん、大隅流、他の流等も研究する。 | |
技は、師と見間違える程に上達し、師に従って諸国を歴遊し、近畿・中国に及んだ。師と共に東照宮の修理にも従事したといわれる。 | |
1870年(明治3)10月29日 | 中禅寺湖畔で病気のため死去。 |
参考文献
東筑摩郡・松本市・塩尻市誌別篇人名 | 東筑摩郡・松本市・塩尻市/編 | 安曇野市図書館 |
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明科町史 | 明科町史編纂会/編 | 安曇野市図書館 |