浅井 五郎左衛門|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052226 印刷用ページを表示する 掲載日:2025年1月27日更新
浅井 五郎左衛門
あさい ごろうざえもん
倉田の芝切(しばきり)・倉田堰の開削。
生年月日 | 不詳 |
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没年月日 | 1752年(宝暦2) |
関連地域 | 堀金(倉田) |
職業・肩書 | 組頭 |
活躍年 | 江戸時代以前 |
ゆかりの分野 | 経済(産業) |
経歴
浅井家は、松本市正行寺の佐々木氏に従って、近江国から信州へ移り住んだと伝えられています。倉田へ移住した時は、同地の開発された1699年(元禄12)でした。1744年(寛保4)に、父五郎兵衛が亡くなりました。
倉田は水利権がなく、畑地で粟を作っており、組頭を勤めていたため、浅井家は「粟お頭」といわれていました。1752年(宝暦2)に亡くなりました。
浅井五郎左衛門の子が2代目の五郎左衛門を名乗り、志を継ぎ、開墾が進みました。倉田堰の開削を実現し、田も開田されました。「長尾組村々枝郷小名所御改ニ付書上帳」(山口裕氏文書)によると、1803年(享和3)開発の新切(しんきり)は55戸となりました。
略歴譜
生年不詳 | 生れる。 | |
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浅井家は、松本市正行寺の佐々木氏に従って、近江国から信州へ移り住んだと伝えられる。 | ||
倉田へ移住した時は、同地の開発された1699年(元禄12)であった。 | ||
1744年(寛保4) | 父五郎兵衛が亡くなる。 | |
父の跡を継ぎ、更に開墾を行う。 | ||
倉田は水利権がなく、畑地で栗を作っており、組頭を勤めていたため、浅井家は「粟お頭」といわれていた。 | ||
1752年(宝暦2) | 亡くなる。 | |
子が2代目の五郎左衛門を名乗り、志を継ぎ、開墾が進む。 | ||
「長尾組村々枝郷小名所御改ニ付書上帳」(山口裕氏文書)によると、1803年(享和3)開発の新切は55戸となる。 | ||
1724年(享保9)の『信府統記』によると、下堀金村新切(扇町)は25石2斗8升5合(23町歩)となることから、扇町並みの下畑2斗、下々畑1斗とすると、上堀金村新切(無役高・倉田分)の31石4斗5合は28町歩となる。これを55戸で割ると、1戸当り5反歩位となる。 |
参考文献
堀金村誌 | 堀金村誌編纂委員会・堀金村公民館/編 | 安曇野市図書館 |
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宮下一男氏所蔵資料 |