浅井 斧右衛門|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052227 印刷用ページを表示する 掲載日:2025年1月27日更新
浅井 斧右衛門
あさい おのうえもん
倉田の芝切(しばきり)・倉田堰の開削。
生年月日 | 不詳 |
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没年月日 | 1827年(文政10) |
関連地域 | 堀金(倉田) |
職業・肩書 | 組頭 |
活躍年 | 江戸時代以前 |
ゆかりの分野 | 経済(産業) |
経歴
1810年(文化7)8月15日、村民38名を役宅に集めて、島々谷へ流れていた冷沢を掘廻して小野沢に落し、烏川の水利権を得て倉田堰を開削しようと相談しました。この趣旨を上堀金の庄屋弥三右衛門へ願い出て、願書を藩に提出しました。1811年(文化8)2月8日に藩の聞き届けがあり、同年4月17日には、藩役人による検分が行われました。この検分に際して、村は総出で準備を行いました。6月21日に普請が始まり、7月5日まで延べ195人が出動して掘廻しを完成させました。斧右衛門は、開削のための諸材料・費用・人手の手配等を行いました。倉田堰の開削によって、1818年(文政1)に田が3町5反5畝歩開田されました。この後、拾ヶ堰の開削と共に、上堀金堰の余水によって一層開田が進められました。
略歴譜
生年不詳 | 生まれる。 |
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1752年(宝暦2) | 父五郎左衛門が死去。 |
1810年(文化7)8月15日 | 村民38名を集め、島々谷へ流れる冷沢を掘廻して小野沢に落し、烏川の水利権を得て倉田堰を開削する相談を行う。 |
この趣旨を上堀金の庄屋弥三右衛門へ願い出て、願書を藩に提出する。 | |
1811年(文化8)2月1日 | 村民は烏川で水ごりをし、倉田の氏神に千度参りを行う。 |
1811年(文化8)2月8日 | 藩の聞き届けがある。 |
1811年(文化8)4月17日 | 藩役人による検分が行われる。検分に際して、村は総出で笹刈りをして、道を造り藩役人の宿泊用の風呂桶を運搬等している。 |
1811年(文化8)6月21日から 7月5日 |
普請が始まり、7月5日まで延べ195人が出動して掘廻しを完成させる。斧右衛門は、開削のための諸材料・費用・人手の手配等を行う。 |
1818年(文政元) | 田が3町5反5畝歩開田される。 |
この後、拾ヶ堰の開削と共に、上堀金堰の余水によって一層開田が進められている。 | |
1827年(文政10) | 死去 |
参考文献
堀金村誌 | 堀金村誌編纂委員会・堀金村公民館/編 | 安曇野市図書館 |
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宮下一男氏所蔵資料 |