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曽根原 林三|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052228 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

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曽根原 林三
そねはら りんぞう

天蚕飼育の開発。

生年月日 1842年(天保13)
没年月日 1887年(明治20)12月9日
関連地域 穂高(新屋)
職業・肩書 蚕業功労者
活躍年 明治時代
ゆかりの分野 経済(産業)

 

経歴

穂高新屋に、生れました。36歳のとき、東京に天蚕社を設立し社長となり、1879年(明治12)に、天蚕教師として千葉県に出張の際、柞蚕(さくさん)繭を20粒調達しました。同年秋、翌年春・秋、翌々年春の計4回飼育し、蚕繭が4万2千粒に増粒となりました。1881年(明治14)に、自宅に開源社を設立して社長となり、種繭を社員に売り、同社でも飼育し、当地方における柞蚕飼育の道を開きました。翌年、一般へも広めるため、櫟(くぬぎ)の種も分かち、増産を図ったので、有明地方を中心に普及し、天蚕飼育と相まって高名を博するに至りました。1887年(明治20)12月9日に亡くなりました。1914年(大正3)に、南安曇郡長から柞蚕開源社宛に表彰状が贈られました。

略歴譜

1842年(天保13) 0歳 穂高新屋に生れる。
1877年(明治10)   有明地方で天蚕飼育が行われる。
  36歳 東京に天蚕社を設立し、社長となる。
1879年(明治12)   天蚕教師として千葉県に出張の際、柞蚕繭を20粒調達。
1881年(明治14)   翌年秋、翌々年春・秋、1881年(明治14)春の計4回飼育し、蚕繭が4万2千粒に増粒となる。
1881年(明治14)   自宅に開源社を設立して社長となり、種繭を社員に売り、同社でも飼育し、当地方における柞蚕飼育の道を開く。
1882年(明治15)   一般へも広めるため、櫟の種も分かち、増産を図り、有明地方を中心に普及する。
1887年(明治20)12月9日 45歳 亡くなる。穂高小岩嶽荒堰地区約10ヘクタールの櫟林で柞蚕飼育を行う。手取水車で糸を取る特殊な技術者を雇い入れ、山蚕の製糸を始める。この製糸は没後の1902年(明治35)頃まで行われる。狩猟が好きで、愛犬家でもあった。
1914年(大正3)   南安曇郡長から柞蚕開源社宛に表彰状が贈られる。

参考文献

南安曇郡誌第三巻下 南安曇郡誌改訂編纂会/編 安曇野市立図書館

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