曽山 環翠|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052229 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新
曽山 環翠
そやま かんすい
俳句宗匠として、郡下の俳人に大きな影響を与えた。また、篆刻に優れ、多くの作品を遺した。
生年月日 | 1881年(明治14) |
---|---|
没年月日 | 1973年(昭和48) |
関連地域 | 堀金(下堀) |
職業・肩書 | 俳句宗匠・篆刻家 |
活躍年 | 昭和時代 |
ゆかりの分野 | 文化(文芸) |
経歴
堀金下堀に生れました。大正時代から昭和時代にかけて活躍しました。病気を機に俳句の道に入り、句作に専念するかたわら、八幡香霜に就いて漢学を学びました。1901年(明治34)に豊科に居を構え、各地で俳句大会を開き、郡下の俳人に大きな影響を与えました。師の勧めにより篆書(てんしょ)と篆刻の勉強のため、大正の初めに中国に渡り、帰国後、香霜に就いて篆刻を学び、秀れた作品を数多く遺しました。また、俳句を京都の花ノ本聴秋(二條公爵)に師事し、萩ノ本環翠の雅号と宗匠を允許(いんきょ)され、京都において俳誌「鴨東新誌」を発行しました。1928年(昭和3)には、柿ノ本号の免状と柿ノ本十二世を拝命し、俳句と篆刻の研究に没頭し、頭山満から「清夢」の名を受けました。門下は1,000名を超え、宗匠俳人として県下各所で俳句選者を務めました。
篆刻の代表的な作品は、豊科の一乗寺・豊科公民館・松本駅玄関・松本秀峰中等教育学校(旧松南高等学校)・善光寺雲上殿・玄番稲荷等にあります。
略歴譜
1881年(明治14) | 0歳 | 堀金下堀に生れる。 |
---|---|---|
松本中学校(現深志高等学校)に進学する。 | ||
病気を機に俳句の道に入る。 | ||
句作に専念するかたわら、八幡香霜に就いて漢学を学ぶ。 | ||
1901年(明治34) | 豊科に居を構え、各地で俳句大会を開き、郡下の俳人に大きな影響を与える。 | |
大正初期 | 師の勧めにより篆書と篆刻の勉強のため、大正の初めに中国に渡る。 | |
帰国後、香霜に就いて篆刻を学び、秀れた作品を数多く遺す。 | ||
俳句を京都の花ノ本聴秋(二條公爵)に師事し、萩ノ本環翠の雅号と宗匠を允許され、京都において俳誌「鴨東新誌」を発行する。 | ||
1928年(昭和3) | 柿ノ本号の免状と共に柿ノ本十二世を拝命し、以来俳句と篆刻の研究に没頭し、頭山満から「清夢」の名を受ける。 | |
門下は1,000名を超え、宗匠俳人として県下各所で俳句選者を務める。 | ||
1950年(昭和25) | 豊科に「きさらぎ俳句会」が結成され、中村草田男らを招いて、「万緑長野県俳句大会」を主催する。 | |
1956年(昭和31)から 1969年(昭和44) |
堀金村文化祭俳句展の選者を務める。 | |
1970年(昭和45) | 文化祭に、90歳を記念して、曾山環翠作品展が催される。 | |
1973年(昭和48) | 92歳 | 亡くなる。 |
参考文献
堀金村誌 | 堀金村誌編纂委員会・堀金村公民館/編 | 安曇野市立図書館 |
---|