相馬 黒光|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052233 印刷用ページを表示する 掲載日:2025年3月3日更新
相馬 黒光
そうま こっこう
中村屋サロンの中心的存在。作家。相馬愛蔵の妻。
生年月日 | 1876年(明治9)9月12日(戸籍面 1875(明治8)年9月11日) |
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没年月日 | 1955年(昭和30年)3月2日 |
関連地域 | 穂高(白金。仙台市出身。) |
職業・肩書 | 作家 |
活躍年 | 大正時代 |
ゆかりの分野 | 経済(経済) |
経歴
新宿中村屋の創業者。仙台市旧屋敷町の士族・星家に生れました。幼名を菱といい、長じて良と名乗ります。宮城女学校(現宮城学院)を経て、横浜フェリス女学校に入学しました。明治女学校の講師・星野天知と知り合ったことがきっかけで同校に転学します。同校在学中に東京専門学校(現早稲田大学)を卒業。北海道を遊歴し、相馬愛蔵を知りました。1897年(明治30)に明治女学校を卒業し、翌年に穂高白金の相馬家に嫁入りました。家事の暇に、東京の「女学雑誌」に寄稿しました。黒光は苦労の末に、東京本郷赤門前のパン屋中村屋を譲り受け、やがて新宿に移転した中村屋を、夫の愛蔵とともに努力を重ね、商才を発揮して発展させました。また、印度の志士ボース等の保護に当ると共に、芸術家等文化人が集う中村屋サロンの中心的存在でした。60歳頃、作家活動を再開し、「黙移」等を著しました。「黒光」の号は、明治女学校の恩師であった巌本善治が名づけたもので、「溢れる才気を少し黒で隠しなさい」という意味が込められていたといいます。
略歴譜
1876年(明治9) | 仙台市旧屋敷町の星家に生まれる。(戸籍面 1875(明治8)年9月11日) | |
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片平町尋常小学校、東二番町高等小学校を卒業し、宮城女学校に進学する。 | ||
横浜フェリス女学校を経て、明治女学校在学中に東京専門学校(現早稲田大学)を卒業する。 | ||
北海道を遊歴し、郷土の文化指導等に抱負をもっていた時、相馬愛蔵を知る。 | ||
1897年(明治30) | 明治女学校を卒業し、翌年、穂高白金の相馬家に嫁入りする。 | |
東京の「女学雑誌」に寄稿する。 | ||
東京本郷赤門前のパン屋中村屋を譲り受け、やがて新宿に移転して発展させる。 | ||
印度の志士ボース等の保護に当ると共に、芸術家等文化人が集う中村屋サロンの中心的存在となる。 | ||
仏教に帰依し、渡辺海旭・大島徹水等の高僧に師事する。 | ||
60歳頃、作家活動を再開し、「黙移」等を著す。 | ||
1955年(昭和30)3月2日 | 急病により死去。79歳。 |
参考文献
南安曇郡誌第三巻下 | 南安曇郡誌改訂編纂会/編 | 安曇野市図書館 |
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穂高町誌 | 穂高町誌編纂委員会/編 | 安曇野市図書館 |
写真:がいどぶっく 穂高ものがたり | 中島 博昭/著 | 安曇野市図書館 |