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多田 加助(嘉助)|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052235 印刷用ページを表示する 掲載日:2025年7月31日更新

多田 加(嘉)助の写真

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多田 加助(嘉助)
ただ かすけ

1686年(貞享3) 貞享騒動を指揮(安曇野の民権の先駆け)。

生年月日 1639年(寛永16)
没年月日 1686年(貞享3)11月22日
関連地域 三郷(中萱)
職業・肩書 庄屋
活躍年 江戸時代以前
ゆかりの分野 社会(社会事業)

 

経歴

 江戸時代の前半、1670年頃から不作や凶作が度々起こり、延宝2・3年(1674)の飢饉では松本藩の人口約9万5千人の内4,000人が餓死または病死しました。1686年も不作、松本藩は財政難のため収穫した米の7割を納める増税命令を発しました。中萱村の元庄屋加助は、食料がなく苦しむ百姓たちの命を救おうと近在の村役人層の仲間10人と相談し、一揆によって松本城下へ訴え出よう(越訴おっそ)、また、百姓たちの加勢(強訴ごうそ)を計画しました。10月14日、加助ら首謀者たちは増税撤回と減税などを求めた訴状を大手門番所に提出、数千から1万人の百姓たちが城下に押し寄せました。10月18日、増税撤回と減税がかなえられて一揆は集結しました。しかし、藩は減税をなかったことにし、ご法度(違法)の越訴と強訴などの罪で首謀者らを逮捕しました。そして、11月22日首謀者11人を磔と獄門に、そして無実の跡継ぎの男子どもと弟17名までを異例の獄門に処しました。​

略歴譜

1639年(寛永16) 長尾組中萱村(三郷中萱)の庄屋多田家の長男に生れる。幼名は三蔵。
1654(承応3) 三蔵から加助の成人名を世襲する。
1664年(寛文4) 彦三郎の役職名で庄屋役を父から引き継ぐ。
1669年(寛文9) 藩の芒取り命令に対し、藩に抗議。
1674から75年
(延宝2から3)
大凶作による飢饉。4,000人が餓死・病死(人口約9万人)。
彦三郎(加助)ら4人の庄屋が飢饉による訴訟を起こし、蔵込の刑を受ける。
1680年(延宝8) 大飢饉。長尾・上野組百姓らが芒取り免除を代官に訴え出る。
1681年(天和元) 前年の年貢延納の納金が遅れたため、下堀金村庄屋が蔵込の刑、彦三郎の妻が人質となった。
楡村の善兵衛と共に庄屋役を罷免される。以後加助を名のる。
1686年(貞享3)
10月14日
11月22日
藩の増税に対し増税と芒取りの撤回、減税を一揆による訴えを計画。10名仲間と数千人の百姓たちの加勢と共に訴え出る。
安曇側の首謀者は勢高、筑摩側の首謀者は出川の処刑場で、無実の男子ども・弟と共に28名が処刑される。

参考文献

三郷村誌2 三郷村誌編纂委員会/編          安曇野市図書館
貞享騒動をたずねて 貞享義民記念館/編 安曇野市図書館
貞享義民記念館所蔵資料    

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