中沢 染江|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052063 印刷用ページを表示する 掲載日:2025年1月27日更新
中沢 染江
なかざわ そめえ
自治功労者。高橋白山を招き、協和学校設立に尽力する。コレラ流行の際、自宅を病室や医師の宿に当て、幾人もの命を救う。
生年月日 | 1848年(嘉永1) |
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没年月日 | 1912年(明治45) |
関連地域 | 三郷(下長尾) |
職業・肩書 | 自治功労者 |
活躍年 | 明治時代 |
ゆかりの分野 | 経済(産業) |
経歴
三郷下長尾に生まれました。1872年(明治5)、新学制が発布されましたが、通学距離が4キロメートル以上と遠いため、長尾村の平福寺を仮校舎として、協和学校を計画しました。協和学校の設立に当たり、教師に高橋白山、助手に北原兼信を依頼して、永山筑摩県知事に設立願いを提出し、実現しました。 1873年(明治6)、長尾村の副戸長になった時、この地方にコレラが流行したため、医師の派遣や防疫に努め、自宅を病室や医師の宿に当て、幾人もの命を救いました。温村長・郡会議員・県会議員等を務め、私事を投げ打って公事のために尽くして、人の悩みについて親身になって相談に乗りました。1912年(明治45)に、死去。
略歴譜
1848年(嘉永元) | 三郷下長尾に生まれ、後に東中沢家を継ぐ。 |
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1872年(明治5) | 新学制が発布されるが、通学距離が4キロメートル以上と遠いため、長尾村の平福寺を仮校舎として、協和学校を計画する。 |
協和学校の設立に当たり、教師に高橋白山、助手に北原兼信を依頼して、永山筑摩県知事に設立願いを提出し、実現する。 | |
1873年(明治6) | 長尾村の副戸長となる。 |
この地方にコレラが流行したため、医師の派遣や防疫に努め、自宅を病室や医師の宿に当て、幾人もの命を救う。 | |
1879年(明治12) | コレラへの対応の功績を認められ、県から表彰される。 |
1882年(明治15) | 戸長に就任し、1期、新制度実施の責任者となり、努力する。 |
1893年(明治26) | 温村長に選任され、新しい村づくりのために尽力する。 |
1897年(明治30) | 郡会議員となり、この間、郡の参事も務める。 |
1899年(明治32) | 郡選出の県会議員の任を1期果たす。 |
私事を投げ打って公事のために尽くして、人の悩みについて親身になって相談に乗る。 | |
1912年(明治45) | 死去。 |
参考文献
三郷村誌1 | 三郷村誌編纂会/編 | 安曇野市図書館 |
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