中谷 基|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052062 印刷用ページを表示する 掲載日:2025年1月27日更新
中谷 基
なかや もとい
医師。堀金で開業し、村人の医療に努めた後、フィリピンに渡り、熱帯病の研究をし、静岡県・宮城県・滋賀県で衛生行政に貢献する。
生年月日 | 1886年(明治19) |
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没年月日 | 1934年(昭和9)5月 |
関連地域 | 堀金(小田多井) |
職業・肩書 | 医師 |
活躍年 | 大正時代 |
ゆかりの分野 | 社会(医療厚生) |
経歴
堀金小田多井に生まれました。千葉医学専門学校(現千葉大学)卒業後の1911年(明治44)、郷里で医師を開業し、馬で往診して、熱心に村人の医療に努めました。開業7年を経て、人道的な資性から予防医学の推進にわが道を見出し、1918年(大正7)、フィリピンの友人の慰問と研究を兼ねて、医業を中止して、フィリピンに渡りました。マニラの病院を本拠に、友人の慰問と医療奉仕や衛生環境の視察を行い、熱帯病の研究に打ち込んで、ドクトルメジチーネとなり、1年間研究を行いました。1921年(大正10)に官吏となり、静岡県警察部衛生課に衛生技師として4年間勤めた後、宮城県に4年間勤めて、滋賀県警察部衛生課長に栄転しました。無砂七分搗(つ)き米の普及・寄生虫の駆除・マラリヤの撲滅等に尽力し、1934年(昭和9)5月、郷里で死去。
略歴譜
1886年(明治19) | 堀金小田多井に生まれる。 |
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千葉医学専門学校を卒業する。 | |
1911年(明治44) | 郷里で医師を開業し、馬で往診して、熱心に村人の医療に努める。 |
青年団時代、日本の将来を考えて海外進出の重要性を説き、これに啓発された横山要太他3名がフィリピンへ渡航する。 | |
開業7年を経て、人道的な資性から予防医学の推進にわが道を見出す。 | |
1918年(大正7) | フィリピンの友人の慰問と研究を兼ねて、医業を中止して、フィリピンに渡る。 |
マニラの病院を本拠に、友人の慰問と医療奉仕や衛生環境の視察を行い、熱帯病の研究に打ち込んで、ドクトルメジチーネとなる。 | |
1921年(大正10) | 官吏となり、静岡県警察部衛生課に衛生技師として4年間勤め、宮城県に4年間勤める。 |
混砂米を県令で禁止し、精米業者や米屋の攻撃の矢面に立って説得し、県令で全県で無砂七分搗き米が実施される。 | |
マラリヤ撲滅を期し、台湾から蚊を食う稚魚を移入し、水産試験場に委嘱して堀や溝に放流させる。 | |
厚生省に働きかけて予算を獲得し、キニーネ等の高貴薬を保虫者に飲ませて駆除する。 | |
1934年(昭和9)5月 | 死去。 |
参考文献
堀金村誌 | 堀金村誌編纂委員会・堀金村公民館/編 | 安曇野市図書館 |
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