中田 又重|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052060 印刷用ページを表示する 掲載日:2025年1月27日更新
中田 又重
なかた またじゅう
登山道開削者。播隆を案内。
生年月日 | 1795年(寛政7) |
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没年月日 | 1852年(嘉永5) |
関連地域 | 三郷(南小倉) |
職業・肩書 | 登山道開削者 |
活躍年 | 江戸時代 |
ゆかりの分野 | 社会(交通通信) |
経歴
三郷南小倉に生まれました。文政期に岩岡村の庄屋伴次郎を訪ね、難航していた飛騨への新道の開削の計画を練り直し、自ら陣頭に立って工事を行いました。1826年(文政9)8月に、中田九左衛門の紹介により、播隆から槍ヶ岳登山案内を引受け、2人で槍ヶ岳中腹の坊主岩まで登りました。1833年(天保4)、槍ヶ岳中腹の岩窟で、念仏修行中に疲労衰弱していた播隆を救出しました。1834年(天保5)、播隆と槍ヶ岳頂上をならし、仏像一体を加えて4体を安置し、「善の綱」(わらの綱)を懸けました。1837年(天保8)、着工以来17年を経て、ついに飛騨新道が完成しました。1840年(天保11)には、岩岡伴次郎と一日市場の百瀬茂八郎の援助を受けて、槍ヶ岳頂上付近に鉄鎖を設置しました。
略歴譜
1795年(寛政7) | 三郷南小倉の豪家に生まれる。 |
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村の青年に漢書や手習いを教える。 | |
文政 | 岩岡村の庄屋伴次郎と意気投合し、飛騨新道の開削に加勢する。 |
1826年(文政9)8月 | 播隆から槍ヶ岳登山案内を引受け、2人で槍ヶ岳頂上直下まで登るが、播隆に従い、引き返す。 |
1828年(文政11) | 苦心の末、播隆と槍ヶ岳頂上に初登頂し、仏像3体を頂上に安置する。 |
1833年(天保4) | 第3回目の登頂で、播隆は岩窟に一人残り、17日間の念仏修業をした。 |
岩窟に一人残った播隆を心配し、救出に向かった又重は、疲労衰弱した播隆を背負い、下山した。 | |
1834年(天保5) | 槍ヶ岳頂上から頂上直下までの登山道に綱を設置する。これを「善の綱」という。 |
1837年(天保8) | 飛騨新道が完成する。 |
1840年(天保11) | 槍ヶ岳頂上から頂上直下までの登山道に鉄鎖を設置する。 |
1852年(嘉永5) | 死去。 |
参考文献
南安曇郡誌第三巻下 | 南安曇郡誌改訂編纂会/編 | 安曇野市図書館 |
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三郷村誌1 | 三郷村誌編纂会/編 | 安曇野市図書館 |
三郷村誌2 | 三郷村誌編纂委員会/編 | 安曇野市図書館 |