長谷川 清登|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052058 印刷用ページを表示する 掲載日:2025年1月27日更新
長谷川 清登
はせがわ けさと
わが国最初の一等飛行機操縦士となり、民間飛行家として航空分野の普及に尽す。
生年月日 | 1896年(明治29) |
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没年月日 | 1959年(昭和34) |
関連地域 | 豊科(上鳥羽) |
職業・肩書 | 民間飛行家 |
活躍年 | 大正時代 |
ゆかりの分野 | 社会(交通通信) |
経歴
豊科上鳥羽に生れました。1916年(大正5)、南穂高小学校の教員から徴兵により、東京の近衛騎兵連隊へ入隊しました。1921年(大正10)、わが国最初の一等飛行機操縦士の試験に合格して、航空学校を卒業し、所沢陸軍飛行学校(旧航空学校)の教官を2年間勤めました。除隊後、民間飛行家として航空分野の普及に尽すことを考えました。1924年(大正13)4月12日、陸軍より払い下げられた偵察機サルムソン二A二型を操縦し、各務原飛行場から豊科上空経由で松本まで飛行しました。松本市は、笹部に飛行場用地を買い上げ、長谷川飛行士に使用させ、これがわが国初の個人飛行場といわれます。長野県下のほか、新潟県・群馬県・埼玉県・千葉県等を飛行し、空を飛ぶ時代の到来についての講演等を行う。新聞社の原稿等の空輸・上空からの山の撮影・地図作り等、飛行機の平和利用の普及に尽す。1959年(昭和34)、63歳で亡くなりました。
略歴譜
1896年(明治29) | 豊科上鳥羽に生れる。 |
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1916年(大正5) | 南穂高小学校の教員から徴兵により、東京の近衛騎兵連隊へ入隊する。 |
1920年(大正9) | 陸軍により所沢に開設された航空学校に、軍籍のまま志願して入校する。 |
1921年(大正10) | わが国最初の一等飛行機操縦士の試験に合格して卒業する。 |
所沢陸軍飛行学校(旧航空学校)の教官を2年間勤める。 | |
民間飛行家として航空思想の普及に尽すことを考える。 | |
1924年(大正13)4月12日 | 陸軍より払い下げられた偵察機サルムソン二A二型を操縦し、各務原飛行場から豊科上空経由で松本まで飛行する。 |
1924年(大正13) | 松本の長谷川家の養子となり、代議士・県会議員・松本市等の応援により、長谷川飛行士後援会が発足する。 |
松本市は、笹部に飛行場用地を買い上げ、長谷川飛行士に使用させ、わが国初の個人飛行場となる。 | |
1934年(昭和9) | 室戸台風のため、長谷川飛行場は閉鎖となる。 |
1959年(昭和34) | 松本空港が建設されることを聞きながら、亡くなる。 |
参考文献
豊科町誌 | 豊科町誌編纂会/編 | 安曇野市図書館 |
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