等々力 孫一郎|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052046 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新
等々力 孫一郎
とどりき まごいちろう
拾ヶ堰の開削の総指揮を執る。
生年月日 | 1761年(宝暦11) |
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没年月日 | 1831年(天保2)5月20日 |
関連地域 | 穂高(柏原。松本市出身。) |
職業・肩書 | 大庄屋代番 |
活躍年 | 江戸時代以前 |
ゆかりの分野 | 経済(産業) |
経歴
松本市出川に生れました。若くして、保高組大庄屋等々力孫右衛門の養子となりました。1812年(文化9)12月、孫右衛門宅に、孫一郎と柏原庄屋中島輪兵衛・下堀金村庄屋平倉六郎右衛門が集まり、3人で藩への働き掛けの具体策を打合せました。同年8月1日に、養父孫右衛門の大庄屋代番に補せられたばかりでした。この時、孫一郎は、川除(かわよけ)方青木所兵衛へ正式に働き掛ける役となり、実際の藩役人の案内は、輪兵衛・六郎右衛門が行いました。この頃、吉野村庄屋勘兵衛・等々力村庄屋民右衛門・柏原庄屋与一右衛門等も奈良井川引水の動きをしていました。1814年(文化11)、輪兵衛・民右衛門・勘兵衛・六郎右衛門・与一右衛門の5人に孫一郎も加わって、願書を保高・長尾両組の大庄屋に提出しました。1815年(文化12)、同志数名で合議し、発起人となって、関係10か村の庄屋同意の下に、再び藩に願い出て、ついに藩の許可するところとなりました。同年、藩は、輪兵衛・六郎右衛門の案内で、詳細な調査をしました。1816年(文化13)2月から始めた難工事は、等々力孫一郎の総指揮の下、5月に見事に成就しました。1831年(天保2)、亡くなりました。
略歴譜
1761年(宝暦11) | 0歳 | 松本市出川に生れる。若くして、保高組大庄屋等々力孫右衛門の養子となる。 |
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1812年(文化9) | 8月1日、養父孫右衛門の大庄屋代番に補せられる。 | |
1812年(文化9) | 孫一郎と輪兵衛・六郎右衛門の3人で、藩への働き掛けの具体策を打合せる。孫一郎は、川除方青木所兵衛へ正式に働き掛ける役となり、実際の藩役人の案内は、輪兵衛・六郎右衛門が行う。 | |
1814年(文化11) | 輪兵衛・民右衛門・勘兵衛・六郎右衛門・与一右衛門の5人に孫一郎も加わって、願書を保高・長尾両組の大庄屋に提出する。 | |
1815年(文化12) | 同志数名で合議し、発起人となって、関係10か村の庄屋同意の下に、再び藩に願い出て、ついに藩の許可するところとなる。 | |
1815年(文化12) | 輪兵衛・六郎右衛門の案内で、藩は、詳細な調査をする。 | |
1816年(文化13) | 2月から始めた難工事は、5月に見事に成就する。 | |
1831年(天保2)5月20日 | 亡くなる。 | |
1916年(大正5) | 従五位を追贈される。 |
参考文献
南安曇郡誌第三巻下 | 南安曇郡誌改訂編纂会/編 | 安曇野市立図書館 |
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穂高町誌第二巻 | 穂高町誌編纂委員会/編 | 安曇野市立図書館 |
堀金村誌上巻 | 堀金村誌編纂委員会/編 | 安曇野市立図書館 |