等々力 巳吉|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052045 印刷用ページを表示する 掲載日:2025年1月27日更新
等々力 巳吉
とどりき みよし
洋画家。教師をやめてパリに留学する。二科展、日本美術院、一水展、日展等に出品し、日本アルプスの研究と制作に精魂を傾注する。
生年月日 | 1893年(明治26) |
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没年月日 | 1959年(昭和34) |
関連地域 | 穂高(柏原) |
職業・肩書 | 洋画家 |
活躍年 | 昭和時代 |
ゆかりの分野 | 文化(芸術) |
経歴
穂高柏原に生まれました。1928年(昭和3)まで、堀金・豊科・開智小学校の教師として教育に専念する傍ら、画業に熱中しました。1928年(昭和3)5月、パリへ画学の旅に出て、3年間留まり、研究所でフリエズ師に就き、洋画を究めました。1930年(昭和5)には、二科展で滞欧中の作品、「ヴェニスの船着場」が初入選しました。1937年(昭和12)から1942年(昭和17)まで、画業報国のため、朝日新聞従軍画家となって、北支で戦線スケッチを行いました。1940年(昭和15)に、紀元2600年記念展に出品し、満州牡丹(ぼたん)江東寧に、松本50連隊(れんたい)遠山部隊長を訪ね、「国境の勇士」を百号で描きました。北京に住み、北京公署・建設総署の委嘱により、清朝歴史画の制作をするとともに、中国画の研究に心を傾けました。帰国後は、日本アルプスの研究と制作に情熱を注ぎました。1950年(昭和25)、日本美術展に「小梨平」、第17回一水会に「神秋上高地」を出展しました。1959年(昭和34)、病死しました。
略歴譜
1893年(明治26) | 穂高柏原に生まれる。 |
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穂高高等小学校を卒業する。 | |
1909年(明治42) | 1928年(昭和3)まで、堀金・豊科・開智小学校の図画専科教員・本科正教員として教育に専念する傍ら、画業に熱中する。 |
1928年(昭和3)5月 | シベリア鉄道でパリへ画学の旅に出て、3年間留まる。研究所に入り、フリエズ師に就き、洋画の精髄を究める。 |
1930年(昭和5) | スイス・イタリアを歴遊し、帰国後、二科展で滞欧中の作品、「ヴェニスの船着場」が初入選する。 |
1937年(昭和12) | 画業報国のため、1942年(昭和17)まで朝日新聞従軍画家となって、北支で戦線スケッチを行う。 |
1940年(昭和15) | 紀元2600年記念展に出品する。満州牡丹江東寧に、松本50聯隊遠山部隊長を訪ね、「国境の勇士」を百号で画く。 |
1943年(昭和18) | 北京郊外の万寿山に居住し、北京公署・建設総署の委嘱により、清朝歴史画の制作をするとともに、中国画の研究に心を傾ける。 |
1944年(昭和19) | 北京報道部の委嘱により、河南作戦に従軍する。一水会会員となる。 |
1946年(昭和21)5月 | 帰国する。柏原と東京のアトリエで、日本アルプスの研究と制作に精魂を傾注する。 |
1950年(昭和25) | 日本美術展に「小梨平」を出展する。 |
第17回一水会に、苦心の大作「神秋上高地」を出展する。 | |
1959年(昭和34) | 生地にて病死。 |
参考文献
南安曇郡誌第三巻下 | 南安曇郡誌改訂編纂会/編 | 安曇野市図書館 |
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穂高町誌 | 穂高町誌編纂委員会/編 | 安曇野市図書館 |
安曇野の美術 | 丸山楽雲/編 | 安曇野市図書館 |
1993穂高町出身の芸術家総合遺作展 | 総合遺作展実行委員会/編 |