藤森 善兵衛|安曇野ゆかりの先人たち
藤森 善兵衛
ふじもり ぜんべえ
地方狂歌作者として活躍する。拾ヶ堰の開削に携わる。
生年月日 | 不詳 |
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没年月日 | 1817年(文化14) |
関連地域 | 豊科(成相新田) |
職業・肩書 | 大庄屋・地方狂歌作者 |
活躍年 | 江戸時代以前 |
ゆかりの分野 | 文化(文芸) |
経歴
豊科成相新田に生れ、本名は藤森善兵衛と称しました。新田園長丸(しんでんえん おさまる)と号しました。江戸の狂歌作者鹿都部真顔に狂歌を学び、地方判者となりました。
1814年(文化11)に、親交を持つ江戸の滑稽本作者十返舎一九が、板木師花垣を連れて松本地方を訪れた際に、松本まで迎えに行き、花垣と共に自宅に一泊してもらい、翌日栗尾満願寺等を案内しました。同年、松本で刊行された「狂歌水篶(みすず)集」に、慶林堂知霍(通称高見甚左衛門)と共に深く関係しました。1816年(文化13)、十返舎一九が「続膝栗毛 八編 従木曽路善光寺道」(本山より大町)を刊行し、同書の挿絵に善兵衛・甚左衛門の作品が添えられました。
善兵衛は、成相組大庄屋として、1815年(文化12)12月付けで、穂高組大庄屋等々力孫右衛門、長尾組大庄屋丸山円十郎と共に、堀金下堀の平倉六郎右衛門、豊科吉野の岡村勘兵衛、穂高等々力町の白沢民右衛門、穂高柏原の中島輪兵衛、同柏原の関与一右衛門等から拾ヶ堰の開削の願い出を受けました。同年12月21日、藩の許可が下りて御目論見帳が渡され、翌1816年(文化13)に拾ヶ堰が完成しました。
1817年(文化14)に亡くなりました。
略歴譜
生年不詳 | 豊科成相新田に生れる。本名は藤森善兵衛と称する。 | |
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江戸の狂歌作者鹿都部真顔に狂歌を学び、地方判者となる。 | ||
1814年(文化11) | 親交を持つ江戸の滑稽本作者十返舎一九が、板木師花垣を連れて松本地方を訪れた際に、松本まで迎えに行き、花垣と共に自宅に一泊してもらい、翌日栗尾満願寺等を案内する。 | |
1814年(文化11) | 松本で刊行された「狂歌水篶集」に、慶林堂知霍(通称高見甚左衛門)と共に深く関係する。同書には、「年内立春」と題し、「としのうちにたてども春は浅間山けぶりとや見ん霞とや見ん」の作品がある。 | |
1815年(文化12) | 成相組大庄屋として、穂高組大庄屋等々力孫右衛門、長尾組大庄屋丸山円十郎と共に、堀金下堀の平倉六郎右衛門、豊科吉野の岡村勘兵衛、穂高等々力町の白沢民右衛門、穂高柏原の中島輪兵衛、同柏原の関与一右衛門等から拾ヶ堰の開削の願い出を受け、12月21日、藩の許可が下りて御目論見帳が渡される。 | |
1816年(文化13) | 十返舎一九が「続膝栗毛 八編 従木曽路善光寺道」(本山より大町)を刊行し、同書の挿絵に善兵衛の作品「山ふかき木曽路ながらも名物のくしにはをひく往来の人」と、甚左衛門の作品「色かへる松尾寺なればおのづからこゝにちとせをふるき霊場 信松本 文の屋知寉」 が添えられる。 | |
1816年(文化13) | 拾ヶ堰が完成する。 | |
1817年(文化14) | 亡くなる。 |
参考文献
豊科町誌 歴史編・民俗編・水利編 | 豊科町誌編纂会/編 | 安曇野市立図書館 |
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松本市史 第2巻-[2]歴史編 2 近世 | 松本市/出版 | 安曇野市立図書館 |
長野県歴史人物大事典 | 郷土出版/発行 | 安曇野市立図書館 |
十返舎一九 信濃紀行集第1巻 木曽街道之記 | 郷土出版/発行 | 安曇野市立図書館 |
やじきた道中記の十返舎一九 | さ・え・ら書房/発行 | 安曇野市立図書館 |
一九が町にやってきた | 高美書店/出版 | 安曇野市立図書館 |
講談社 日本人名大辞典 | 講談社/出版 | 安曇野市立図書館 |
広辞苑 第6版 | 岩波書店/出版 | 安曇野市立図書館 |