二木 柄伍|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052031 印刷用ページを表示する 掲載日:2025年1月27日更新
二木 柄伍
ふたつぎ へいご
松本市土木課長、信濃鉄道敷設の技師、温村助役・村長、県会議員として、農村経済恐慌時の黒沢川改修工事、小倉官有林の開墾等、幾多の業績を残す。
生年月日 | 1876年(明治9) |
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没年月日 | 1948年(昭和23)9月 |
関連地域 | 三郷(上長尾。一日市場に生れる。) |
職業・肩書 | 自治功労者 |
活躍年 | 昭和時代 |
ゆかりの分野 | 経済(産業) |
経歴
三郷一日市場に生れました。独学で土木技手の試験に合格し、東筑摩郡役所に勤務しましたが、徴兵により輜重(しちょう)隊に入隊し日露戦役に出征、満州各地に転戦しました。帰還後、多くの学校の設計監督を手掛けました。その後、松本市土木課長・信濃鉄道敷設の技師として活躍しました。1921年(大正10)に温村助役となり、1929年(昭和4)に村長に就任し、併せて産業組合長・村農会長を兼ね、勤続10年間、建築・土木で幾多の業績を残しました。1932(昭和7)から1933年(昭和8)の農村経済恐慌では、農村救済を目的として、黒沢川改修工事を監督指揮しました。小倉官有林の開墾には、担当者の一人として、幾多の訴訟や調停の任に当り、国や県当局と交渉し、完遂(かんすい)しました。1939年(昭和14)9月に県会議員に当選し、4年間県政と地方開発に力を尽くしました。1948年(昭和23)、71歳で病気のため亡くなりました。
略歴譜
1876年(明治9) | 三郷一日市場に、穂苅普吾の二男として生れる。1907年(明治40)、二木森三郎の養子となる。 |
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独学で土木技手の試験に合格し、東筑摩郡役所に勤務する。 | |
徴兵により輜重隊に入隊し、日露戦役に出征して、満州各地に転戦する。 | |
帰還後、土木建築の業務を始め、この地方の多くの学校の設計監督を手掛ける。 | |
松本市土木課長・信濃鉄道の技師として、鉄道敷設の難事業に活躍する。 | |
1921年(大正10) | 温村助役となる。 |
1929年(昭和4) | 温村長に就任し、併せて産業組合長、村農会長を兼ね、勤続10年間、建築・土木で幾多の業績を残す。 |
1932年(昭和7)・ 1933年(昭和8) |
農村経済恐慌では、黒沢橋より住吉神社南までの黒沢川改修工事を監督指揮をする。 |
経済更生指定村等、県や国の指定を受け、村民の精神作興・経済更生を図る。 | |
小倉官有林の開墾には、担当者の一人として、幾多の訴訟や調停の任に当り、国や県当局と交渉し、完遂する。 | |
1939年(昭和14)9月 | 県会議員に当選し、4年間、県政と地方開発に尽瘁する。 |
1948年(昭和23)9月 | 病気のため亡くなる。 |
参考文献
南安曇郡誌第三巻下 | 南安曇郡誌改訂編纂会/編 | 安曇野市図書館 |
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三郷村誌1 | 三郷村誌編纂会/編 | 安曇野市図書館 |