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萩元 晴彦|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052240 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

萩元 晴彦の写真

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萩元 晴彦
はぎもと はるひこ

テレビ創世期の名プロデューサー。長野オリンピックの開閉会式のプロデュースを担当。

生年月日 1930年(昭和5)3月7日
没年月日 2001年(平成13)9月4日
関連地域 堀金(下堀。飯田市出身。)
職業・肩書 プロデューサー
活躍年 昭和時代
ゆかりの分野 社会(報道出版)

 

経歴

飯田市馬場町に生れました。1953年(昭和28)、早稲田大学ロシア文学科を卒業して、ラジオ東京(現Tbs)に入社しました。翌年に制作した番組、「神これを癒し給う―心臓外科手術の記録―」が、民放祭番組コンクールラジオ教養部門で、第1位の郵政大臣賞を受けました。1971年(昭和46)に、Tbs社員と共にテレビマンユニオンを創立し、初代社長に就任して、日本で最初の3時間ドラマ「海は甦る」を制作しました。その後、サントリーホール初代総合プロデューサー・カザルスホールのプロデューサーを勤めて、小澤征爾・カラヤン等と共に活動を行い、1998年(平成10)には、長野冬季オリンピックの開・閉会式のプロデュースを担当しました。 

略歴譜

1930年(昭和5)3月7日 0歳 飯田市馬場町に生れ、幼少の頃に松本へ移る。
    自由学園に入学し、小学校から中学3年まで学ぶ。
1945年(昭和20)   疎開のため堀金烏川(下堀)に移り、松本中学校(現松本深志高校)に転校し、「展望」の創刊を契機に作家臼井吉見と出会う。
1949年(昭和24)   松本深志高校を卒業し、早稲田大学ロシア文学科に入学する。
1953年(昭和28)   早稲田大学ロシア文学科を卒業して、ラジオ東京(現Tbs)に入社する。
1954年(昭和29)   「神これを癒し給う―心臓外科手術の記録―」を制作し、民放祭番組コンクールラジオ教養部門で、第1位の郵政大臣賞を受ける。
1971年(昭和46)   Tbs社員と共にテレビマンユニオンを創立し、初代社長に就任して、日本で最初の3時間ドラマ「海は甦る」を制作する。
1983年(昭和58)   サントリーホールの初代総合プロデューサーに就任し、半年間のオープニング・シリーズを企画制作する。
  カザルスホールのプロデューサーとなり、開館で「ハイドン交響曲・全曲シリーズ」を企画し、3年で全曲演奏を完遂する。
1992年(平成4)   松本でコンサートを亡くなるまで、ほぼ毎年開催する。
1998年(平成10)2月 67歳 長野オリンピックの開・閉会式のプロデュースを担当し、五大陸を結ぶ「第九」合唱の宇宙中継を企画し成功する。
2001年(平成13)9月4日 71歳 病気のため、亡くなる。
2001年(平成13)12月12日   生前に企画していた「萩元晴彦ホームタウンコンサート・9」が、〔彼を偲ぶメモリアルコンサート〕として開催される。

参考文献

萩元晴彦著作集 萩元晴彦/著 安曇野市立図書館

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