白木 正博|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052024 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新
白木 正博
しらき まさひろ
「日本産婦人学会の育ての親」と言われる。
生年月日 | 1885年(明治18) |
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没年月日 | 1960年(昭和35) |
関連地域 | 三郷(一日市場) |
職業・肩書 | 医学博士 |
活躍年 | 大正時代 |
ゆかりの分野 | 社会(医療厚生) |
経歴
三郷一日市場の医師白木鉄平の長男に生れました。日本産婦人科学界が、今日の発展をみるに至った、育ての親といわれました。30数年間、社会情勢が厳しい時にも学術進展のために没頭し、後進の指導に尽瘁(じんすい)して、日本産婦人科学界の最高峰として活躍しました。放射線医学には、一生を通じて最も心血を注ぎ、その他、癌(がん)対策や産科医療等、その研究は多彩でした。また、人口問題・学術用語統一・助産婦教育にも蘊蓄(うんちく)を傾け、産婦人学界のあらゆる領域に偉大な足跡を残しました。発表した学術論文は250篇、著書30余篇、博士の教室で親しく学び、学位を得た人は250人に及びました。
略歴譜
1885年(明治18) | 0歳 | 三郷一日市場の医師白木鉄平の長男に生れる。 |
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1907年(明治40) | 仙台第二高等学校を卒業する。 | |
1911年(明治44) | 東京帝国大学(現東京大学)医学部を卒業し、同校産婦人科教室の助手となる。同室主任木下正中教授、続いて盤瀬雄一教授の指導を受ける。 | |
1915年(大正4) | 30歳 | 東京帝国大学助教授となる。 |
1921年(大正10)5月 | 文部省の命令により、ドイツ・イギリス・フランスに留学する。 | |
1921年(大正10)7月 | 医学博士となる。学位論文「家兎(かと)卵巣に対する硬レントゲン線の作用について」 | |
1926年(大正15) | 九州帝国大学(現九州大学)教授となる。 | |
1929年(昭和4)から 1933年(昭和8) |
文部省の命令により、満州国に2度出張する。 | |
1936年(昭和11) | 東京帝国大学教授となる。 | |
1944年(昭和19) | 勲二等瑞宝章を授章する。 | |
1949年(昭和24) | 日本産婦人科学会名誉会員となる。 | |
1960年(昭和35) | 75歳 | 病気のため亡くなる。 |
参考文献
南安曇郡誌第三巻下 | 南安曇郡誌改訂編纂会/編 | 安曇野市立図書館 |
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