飯沼 正明|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052020 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新
飯沼 正明
いいぬま まさあき
日本航空史最初の長距離高速通信飛行の世界記録を作ると共に、国産機神風号で日本・ロンドン間の全行程を翔破(しょうは)する。
生年月日 | 1912年(大正1)8月2日 |
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没年月日 | 1941年(昭和16)12月11日 |
関連地域 | 豊科(細萱) |
職業・肩書 | 飛行士 |
活躍年 | 昭和時代 |
ゆかりの分野 | 社会(交通通信) |
経歴
豊科細萱に生れました。1931年(昭和6)10月、所沢陸軍飛行学校を卒業しました。同年の11月、陸軍航空兵伍長に任ぜられ、引き続いて所沢陸軍飛行学校に勤め、翌年には航空部員として朝日新聞社に入社しました。東京・新潟間の定期飛行等を始めとして、台湾・満州等にもニュース写真の空輸、写真撮影飛行、宣伝飛行等を行い技を磨きました。1935年(昭和10)4月、台湾大地震の際、内地・台湾連絡飛行によって、日本の長距離高速通信飛行の記録を樹立しました。1937年(昭和12)4月6日、塚越機関士と共に国産機神風号に搭乗し、立川飛行場からロンドンへ向けて出発し、15,357キロを94時間17分56秒(飛行時間、51時間19分23秒)、平均時速300キロで翔破し、ロンドンのクロイドン飛行場に着陸しました。内外の新聞は、「世界的鳥人」と称して称讃を惜しみませんでした。太平洋戦争勃発直後の1941年(昭和16)12月11日、フランス領インドシナカンボジア州プノンペンにおいて、亡くなりました。
略歴譜
1912年(大正1)8月2日 | 0歳 | 豊科細萱に生れる。 |
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1931年(昭和6) | 松本中学校(現深志高等学校)を卒業後、所沢陸軍飛行学校に入学する。 | |
1931年(昭和6)10月 | 19歳 | 所沢陸軍飛行学校を卒業、二等飛行機操縦士、二等航空士の免許を受ける。 |
1931年(昭和6)11月 | 19歳 | 陸軍航空兵伍長に任ぜられ、引き続いて所沢陸軍飛行学校に勤める。 |
1932年(昭和7)10月 | 20歳 | 朝日新聞社に入社し、東京・新潟間の定期飛行、台湾・満州等へのニュース写真の空輸等で技を磨く。 |
1932年(昭和7)11月 | 20歳 | 一等飛行機操縦士となる。 |
1934年(昭和9)9月6日 | 22歳 | 北京訪問飛行により日中航空路を開拓する。 |
1935年(昭和10)4月 | 22歳 | 台湾大地震の際、内地・台湾連絡飛行によって、日本の長距離高速通信飛行の記録を樹立する。 |
1937年(昭和12)4月6日 | 24歳 | 塚越機関士と共に国産機神風号に搭乗し、立川飛行場からロンドンへ向けて出発する。 |
1937年(昭和12)4月10日 | 24歳 | 94時間余の飛行でロンドンのクロイドン飛行場に着陸し、歓迎の嵐の中に着陸する。 |
1937年(昭和12)5月21日 | 24歳 | 歓迎の中、羽田飛行場に帰還し、「空の覇者」「朝日の飯沼」「世界的鳥人」と広く世間に知られる。 |
1937年(昭和12)12月6日 | 25歳 | 陸軍航空兵軍曹に任ぜられる。 |
民間航空界の最高栄誉である「航空章」と「空の金鵄勲章」というべき「航空有功章」を逓信大臣から授与される。 | ||
1941年(昭和16)12月11日 | 29歳 | フランス領インドシナカンボジア州プノンペンにおいて亡くなる。 |
1943年(昭和18) | 従六位勲四等旭日章を賜る。 | |
1989年(平成1)4月 | 豊科細萱に飯沼飛行士記念館が開館する。 |
参考文献
南安曇郡誌第三巻下 | 南安曇郡誌改訂編纂会/編 | 安曇野市立図書館 |
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豊科町誌 | 豊科町誌編纂会/編 | 安曇野市立図書館 |
飯沼飛行士記念館資料 | ||
写真:南安曇郡誌第三巻下 | 南安曇郡誌改訂編纂会/編(原板) |