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百瀬 謙三|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052072 印刷用ページを表示する 掲載日:2025年1月27日更新

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百瀬 謙三
ももせ げんぞう

糸魚川街道、豊科・松本間の開通に尽力。藤森寿平(桂谷)に学ぶ。

生年月日 1846年(弘化3)
没年月日 1916年(大正5)3月26日
関連地域 三郷(一日市場)
職業・肩書 戸長・連合戸長
活躍年 明治時代
ゆかりの分野 社会(交通通信)

 

経歴

三郷一日市場に生れました。幼少の頃は学問が好きで、詩文を相馬古処に、書を藤森桂谷から学びました。筑摩県病院世話役や明盛・温・豊科の連合戸長等を務めました。1887年(明治20)の連合戸長の時、松本より糸魚川に達する県道筋、梓橋経由の豊科・松本間の新道開設の計画が起こりました。南安曇北部を中心に、旧街道筋の人々は熊倉経由を訴えて猛烈な反対をおこないました、郡長の小坂善之助の協力により事業を遂行しました。1888年(明治21)には新道がほぼ完成、10月に梓橋渡り初め式が盛大に行われ、1890年(明治23)には新道が開通しました。糸魚川街道と呼ばれたこの道は、「小坂・百瀬道」とも呼ばれました。百瀬は公職引退後も学問に励み、藤森桂谷と『実践社業余』を著しています。1916年(大正5)に亡くなりました。

略歴譜

1846年(弘化3) 三郷一日市場に生れる。
  幼少の頃は学問が好きで、詩文を相馬古処に、書を藤森桂谷に学ぶ。
1871年(明治4) 筑摩県病院世話役となる。
1872年(明治5) 第九大区学校世話役となる。
1884年(明治17) 明盛村戸長となる。
1885年(明治18) 明盛・温・豊科の連合戸長となり、4年間務める。
1887年(明治20) 松本・糸魚川間の県道筋豊科・松本間の新道開設の議が起こる。小坂善之助郡長の助力で反対を押して事業を行う。
1888年(明治21)7月 県道筋豊科・松本間の新道がほぼ完成する。
1888年(明治21)10月 梓橋渡り初め式が盛大に挙行される。
1890年(明治23) 県道筋豊科・松本間の新道が開通する。
  公職引退後も学問に励み、藤森寿平と『実践社業余』を著す。
1916年(大正5)3月26日 亡くなる。

参考文献

南安曇郡誌第三巻下 南安曇郡誌改訂編纂会/編 安曇野市立図書館
三郷村誌1 三郷村誌編纂会/編 安曇野市立図書館

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