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平倉 六郎右衛門|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052077 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

平倉 六郎右衛門
ひらくら ろくろうえもん

勘左衛門堰(かんざえもんせぎ)改修の願人。拾ヶ堰の開削。

生年月日 1759年(宝暦9)
没年月日 1841年(天保12)12月23日
関連地域 堀金(下堀)
職業・肩書 庄屋
活躍年 江戸時代以前
ゆかりの分野 経済(産業)

 

経歴

堀金下堀の庄屋の家に生れました。勘左衛門堰は、成相組代官二木勘左衛門によって、1685年(貞享2)に開削され、その後、百十余年間に幾度か修理が加えられましたが、水が十分に流れませんでした。1797年(寛政9)、各村の重立役が改修に応じないなか、率先してこれをまとめ、下堀金村の組合加盟にも尽力しました。堰改修の願人となって許可を得、翌寛政10年には、大規模な改修計画を立てました。工事担当人兼堰廻り役になり、徹底した設計を行い、この難工事を竣工させました。この功績によって、藩から独御礼の待遇を与えられ、籾一石を賞与されています。
拾ヶ堰の開削では、1812年(文化9)、保高組大庄屋等々力孫右衛門宅に、六郎右衛門・中島輪兵衛・等々力孫一郎の3人が会し、開削を決め、川除(かわよけ)方青木新兵衛へ内上申し、六郎右衛門・輪兵衛は、堰路の内測量を命じられました。一か年余、命懸けの秘密調査が続けられた結果、1814年(文化11)、六郎右衛門・白沢民右衛門・中島輪兵衛・岡村勘兵衛・関与一右衛門の名義によって、内願書が差し出されました。工事は、1816年(文化13)2月から始められ、六郎右衛門は、輪兵衛と共に測量設計を担当し、種々の難関を乗り越えて、5月に見事に竣工しました。続いて、堰廻り役に任ぜられ、拾ヶ堰のために尽しました。1841年(天保12)12月23日、82歳で亡くなりました。

略歴譜

1759年(宝暦9) 0歳 堀金下堀の庄屋の家に生れる。
1797年(寛政9)   勘左衛門堰の改修を率先してまとめ、下堀堰改修の願人となって許可を得る。
1798年(寛政10)   大規模な改修計画を立てる。
工事担当人兼堰廻り役に任ぜられ、徹底した設計を行い、この難工事を竣工させる。
1812年(文化9)   拾ヶ堰の開削では、保高組大庄屋等々力孫右衛門宅に、六郎右衛門・中島輪兵衛・等々力孫一郎の3人が会し、開削を決め、川除方青木新兵衛へ内上申する。
六郎右衛門・輪兵衛は、堰路の内測量を命じられる。
一か年余、命懸けの秘密調査が続けられる。
1814年(文化11)   六郎右衛門・白沢民右衛門・中島輪兵衛・岡村勘兵衛・関与一右衛門の名義によって、内願書が差し出される。
1816年(文化13)   開削は2月から始められ、六郎右衛門は、輪兵衛と共に測量設計を担当し、5月に竣工する。
続いて、堰廻り役に任ぜられる。
1841年(天保12)12月23日 82歳 亡くなる。

参考文献

南安曇郡誌第三巻下 南安曇郡誌改訂編纂会/編 安曇野市立図書館
穂高町誌第二巻 穂高町誌編纂委員会/編 安曇野市立図書館
堀金村誌上巻 堀金村誌編纂委員会/編 安曇野市立図書館
堀金村誌下巻 堀金村誌編纂委員会/編 安曇野市立図書館

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