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望月 桂|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052083 印刷用ページを表示する 掲載日:2025年1月27日更新

望月 桂の写真

拡大表示 © 撮影 菊地秀明

望月 桂
もちづき かつら

我が国初めての平民美術宣言をし、誰でも参加できる展覧会を開催。漫画家としても活躍。  

生年月日 1886年(明治19)1月11日
没年月日 1975年(昭和50)12月13日
関連地域 明科(塔ノ原)
職業・肩書 画家・漫画家
活躍年 明治・大正・昭和時代
ゆかりの分野 文化(芸術)

 

経歴

明科塔ノ原に生れました。1905年(明治38)3月、松本中学校(現松本深志高等学校)卒業を前に、上京して彫刻家の書生となり、高村光雲・藤島武二の塾に通い、高村光雲の子、高村光太郎と画架を並べて勉強しました。1910年(明治43)3月、東京美術学校(現東京藝術大学)洋画科を卒業し、野沢中学(現野沢北高等学校)に就職しましたが、翌年には退職し間もなく再び上京しました。1916年(大正5)5月、神田猿楽町に氷水屋「へちま」を開業しました。同年、谷中善光寺坂に移って一膳飯屋に転業しますが、この店が久坂卯之助や渡辺政太郎・和田久太郎・堺利彦たちとの出会いの場となりました。 1917年(大正6)に平民美術協会を、さらに1919年(大正8)には黒耀会を結成し、日本における民衆美術展のさきがけとなりました。1922年(大正11)11月に、大杉栄との共著『漫文漫画』をアルスから出版しました。1928年(昭和3)、読売新聞社に入社し、犀川凡太郎の筆名で社会風刺の漫画を新聞に掲載しました。1933年(昭和8)にはフリーとなり、新聞『新愛知』(『中日新聞』の前身のひとつ)などに議会漫画を描きました。1945年(昭和20)、疎開のため帰郷して農業に従事し、全国農地委員協議会の理事として農地改革や農民組合の結成に尽力しました。また松南高等学校(2010年閉校)で、10年間美術講師を勤め美術教育に貢献しました。

略歴譜

1886年(明治19)1月11日 明科塔ノ原に生れる。
1905年(明治38)3月 松本中学校卒業を前に上京して彫刻家の書生となり、高村光雲・藤島武二の塾に通う。
高村光雲の子、高村光太郎と画架を並べて勉強する。
1906年(明治39) 東京美術学校洋画科に入学する。
1910年(明治43)3月 東京美術学校を卒業し、野沢中学に就職する。(翌年辞職して、再度上京する。)
1916年(大正5) 氷水屋(後に一膳飯屋に転業)「へちま」を開業し、久坂卯之助・渡辺政太郎・和田久太郎・堺利彦らと知り合う。
1922年(大正11)11月 大杉栄との共著『漫文漫画』をアルスから出版する。
1928年(昭和3) 読売新聞社に入社し、犀川凡太郎の筆名で漫画を新聞に掲載する。
1933年(昭和8) フリーとなり、『新愛知』等の新聞に議会漫画を掲載する。
1945年(昭和20) 東京から明科に疎開
1946年(昭和21)秋 東筑摩農民組合連合会ができ、組合長に推される。
1955年(昭和30) 松本松南高等学校の美術科講師となる。
1975年(昭和50)12月13日 亡くなる。作品の多くは、生家に保存されている。   

参考文献

東筑摩郡・松本市・塩尻市誌別篇人名 東筑摩郡・松本市・塩尻市/編 安曇野市立図書館
明科町史 明科町史編纂会/編 安曇野市立図書館
民衆美術運動の唱導者 望月桂展(図録) 八十二文化財団/編 安曇野市文書館

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