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望月 市恵|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052085 印刷用ページを表示する 掲載日:2025年1月27日更新

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望月 市恵
もちづき いちえ

信州大学の名物教授で、熊井啓に映画界入りを勧める。ドイツ文学者。

生年月日 1901年(明治34)1月25日
没年月日 1991年(平成3)9月8日
関連地域 穂高(神田町)
職業・肩書 ドイツ文学者。映画監督熊井啓の恩師。  
活躍年 昭和時代
ゆかりの分野 文化(教育)

 

経歴

穂高神田町に生れました。1919年(大正8)に松本中学校(現松本深志高等学校)を卒業し、1922年(大正11)に旧制松本高等学校(信州大学の前身)を卒業しました。高校3年の時、友人の勧めで法科から文学部に志望変更したことが、ドイツ文学の道に進む契機となりました。1925年(大正14)、東京帝国大学(現東京大学)ドイツ文学科を卒業し、静岡高校講師となりました。その後、日本大学予科教授や外務省嘱託等を勤め、1946年(昭和21)松本高等学校の教師となり、1949年(昭和24)には信州大学教授となりました。豊科出身の熊井啓は、松本高等学校(30回生)から信州大学文理学部社会科学科に入り、望月市恵の勧めで映画界に入りました。主著に『糸魚川街道』(糸魚川街道刊行会, 1984)があるほか、リルケ『マルテの手記』(岩波文庫, 1953)など翻訳本多数。

略歴譜

1901年(明治34)1月25日 穂高神田町に生れる。
1919年(大正8) 松本中学校を卒業する。
1922年(大正11) 旧制松本高等学校を卒業する。
1923年(大正12) 東京帝国大学ドイツ文学科に入学する。
1925年(大正14) 東京帝国大学ドイツ文学科を卒業し、静岡高校講師となる。
日本大学予科教授となり、11年間勤める。
1939年(昭和14) 外務省の嘱託となり、3年間勤める。
1946年(昭和21)春 松本高等学校教師となる。
1949年(昭和24) 信州大学教授となる。
(豊科出身の熊井啓が信州大学文理学部社会科学科に入る。望月は熊井啓に映画界入りを勧め、熊井は映画監督関川秀夫の助監督となって映画界に入る。)
1984年(昭和59) 著作『糸魚川街道』を出版。
1991年(平成3)9月8日 亡くなる。

参考文献

糸魚川街道 望月市恵/著 安曇野市立図書館

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