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命を懸けて農民の声を訴えた 多田 加助|安曇野市ゆかりの先人たち

記事ID:0051987 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

多田 加助

命を懸(か)けて農民の声を訴えた
【ただ かすけ】 1639年から1686年 安曇野市三郷(中萱)生まれ。

庄屋。凶作と疫病により餓死者も出る中、奉行所に五か条の訴状を提出して年貢の軽減を求めるが叶わず、藩の欺きにより首謀者として加助以下8名がはりつけの刑に処せられた。

天あおぎ、無念のさけび
後に自由民権運動のいしずえに

貞享義民記念館
貞享義民記念館

教科書に書かれる全国でも有名な農民一揆、「貞享(じょうきょう)騒動」が安曇野にありました。
その中心的リーダーが、多田加助です。
1684年(貞享元)、毎年続く凶作から農民の生活はごく貧しいものでした。農民の悲願を受けた庄屋の加助が年貢の軽減を長尾組の組手代に申し出ますが受け入れられず、松本藩に陳情したことによって、庄屋の身分を取り上げられます。
ところがさらに2年後、凶作と疫病が同時に民を襲い、餓死者も出たために、加助は神社の拝殿で12人の密議のうえ年貢軽減の「5カ条の訴状」を松本城下郡奉行に提出します。このことを知った松本平の1万人もの農民が、竹槍をもって城に押し寄せる騒ぎになったのです。

 

 

貞享義民社の二斗五升の碑
貞享義民社の二斗五升の碑

願いはいったん聞き入れられたものの、1カ月後にはなかったものとされ、この騒動を指揮した罪で加助とその同志、一族ら28人は幼い娘まで含めて勢高と出川の刑場ではりつけ、打ち首の刑に処されたのです。
江戸時代は「徒党(ととう)を組むこと」(団結すること)や「越訴(おっそ)」(直接郡奉行や藩主に陳情すること)、そして「強訴(ごうそ)」(竹槍をもって訴える)は厳しく禁止されていたのでした。

明治近代国家が誕生した後、加助たち犠牲者への思いが、明治10年代の自由民権運動を押し進める原動力になります。豊科の法蔵寺の武居用拙塾では、加助の研究が行われていました。ここで学んだ松沢求策は「民権鑑嘉助面影」という劇をつくって松本平で上演し、これを見た住民が国会開設運動を立ち上げる素地をつくりました。
地元では今も「加助さま」と呼ぶ人がいます。江戸時代には謀反をはたらいた罪人であった加助は、明治維新以降には民衆の正義の代弁者、シンボルとして生まれ変わってくることになるのです。

300年余の時を経た1992年(平成4)、安曇野市三郷に貞享義民記念館が開館し、騒動の資料展示や加助たち義民の顕彰が行われています。

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