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木村 殖|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052095 印刷用ページを表示する 掲載日:2025年1月27日更新

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木村 殖
きむら しげる

山岳遭難救助功労者。

 

生年月日 1905年(明治38)
没年月日 1974年(昭和49)12月
関連地域 堀金(田多井)
職業・肩書 山岳遭難救助功労者
活躍年 昭和時代
ゆかりの分野 社会(社会事業)

 

経歴

堀金田多井に生まれました。1927年(昭和2)に外交官になろうと決心し、普通文官の受験勉強のため、父が管理人をしていた上高地の温泉ホテルに入りました。内野常次郎に狩猟の指導を受けながら、勉強に取り組みましたが、次第に山の魅力に取り付かれ、入山2年目には、父に代って、冬小屋に閉じこもるようになりました。1931年(昭和6)に庄吉小屋に住み、1933年(昭和8)には帝国ホテルへ移り、裏に木村小屋を建て、大学の山岳部の世話をしながら、戦前・戦後にかけて多くの遭難救助に貢献しました。県遭難対策協議会北アルプス南部救助部長を務め、戦前・戦後にかけて通算1,400から1,500件の遭難を扱いました。1969年(昭和44)、自伝『上高地の大将』を実業之日本社から発刊しました。

略歴譜

1905年(明治38) 堀金田多井に生まれる。
三田・烏川村立夜間補修学校に入る。
1927年(昭和2) 外交官になろうと決心し、普通文官の受験勉強のため、父が管理人をしていた上高地の温泉ホテルに入る。
内野常次郎に狩猟の指導を受けながら、勉強に取り組むが、次第に山の魅力に取り付かれる。
入山2年目には、父に代って、冬小屋に閉じこもるようになる。
1931年(昭和6) 庄吉小屋に住む。
1933年(昭和8) 帝国ホテルへ移り、裏に木村小屋を建て、大学の山岳部の世話をしながら、戦前・戦後にかけて多くの遭難救助に貢献する。
戦前・戦後にかけて通算1,400から1,500件の遭難を扱い、「ヒゲの殖さん」として親しまれる。
県遭難対策協議会北アルプス南部救助部長を務め、警察庁長官協力賞・信毎文化賞を受賞する。
1969年(昭和44) 自伝『上高地の大将』を実業之日本社から発刊する。
1974年(昭和49)12月 死去。

参考文献

堀金村誌 堀金村誌編纂委員会・堀金村公民館/編 安曇野市図書館

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