和田 甚左衛門|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052099 印刷用ページを表示する 掲載日:2025年1月27日更新
和田 甚左衛門
わだ じんざえもん
庄屋として人々の先頭に立ち、中堀新田村の開拓に尽力する。
生年月日 | 不詳 |
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没年月日 | 不詳 |
関連地域 | 堀金(中堀。松本市四賀出身。) |
職業・肩書 | 庄屋 |
活躍年 | 江戸時代以前 |
ゆかりの分野 | 経済(産業) |
経歴
筑摩郡会田組(松本市四賀)に生まれました。1687年(貞享4)、和田甚左衛門以下22人が、長尾組手代(大庄屋)に新切(しんきり)願いを差し出しました。松本藩は、早速、土地割を命じ、これに基づいて開拓が進められました。用水の確保には最も苦労し、同年4月、呑水堰(のみみずせぎ)を59人で温堰尻(ぬるせぎじり)から掘り抜きました。翌年、藩は、成相堰を鳥羽から分水して中堀堰を掘らせ、9町歩(9ヘクタール)余の水田化が実現しました。また、薪と水田へ入れる刈敷(かりしき)を取る山は、烏川山へ入会(いりあ)うことが許され、馬草を刈る朝草原は、上堀金原へ入会権が認められました。このように、甚左衛門は、庄屋として人々の先頭に立ち、開拓に当っての種々の難事業を推し進め、中堀新田村の基礎を築きました。
略歴譜
生年不詳 | 松本四賀に生まれる。 |
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1687年(貞享4) | 和田甚左衛門以下22人が、長尾組手代(大庄屋)に新切願いを差出す。 |
1687年(貞享4) | 松本藩は、早速、土地割を命じ、これに基づいて開拓が進められる。 |
1687年(貞享4)4月 | 用水の確保に最も苦労し、呑水堰を59人で温堰尻から掘り抜く。 |
1688年(元禄1) | 藩は、成相堰を鳥羽から分水して中堀堰を掘らせ、9町歩(9ヘクタール)余の水田化が実現する。 |
薪と水田へ入れる刈敷を取る山は、烏川山へ入会うことが許され、馬草を刈る朝草原は、上堀金原へ入会権が認められる。 | |
没年不詳 | 死去。 |
参考文献
堀金村誌 | 堀金村誌編纂委員会・堀金村公民館/編 | 安曇野市図書館 |
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