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和田 甚左衛門|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052099 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

和田 甚左衛門

和田 甚左衛門
わだ じんざえもん

庄屋として人々の先頭に立ち、中堀新田村の開拓に尽力する。

生年月日 不詳
没年月日 不詳
関連地域 堀金(中堀。松本市四賀出身。)
職業・肩書 庄屋
活躍年 江戸時代以前
ゆかりの分野 経済(産業)

 

経歴

筑摩郡会田組(松本市四賀)に生れました。1687年(貞享4)、和田甚左衛門以下22人が、長尾組手代(大庄屋)に新切(しんきり)願いを差し出しました。松本藩は、早速、土地割を命じ、これに基づいて開拓が進められました。用水の確保には最も苦労し、同年4月、呑(のみ)水堰を59人で温堰尻(ぬるせぎじり)から掘り抜きました。翌年、藩は、成相堰を鳥羽から分水して中堀堰を掘らせ、9町歩(9ヘクタール)余の水田化が実現しました。また、薪と水田へ入れる刈敷(かりしき)を取る山は、烏川山へ入会(いりあ)うことが許され、馬草を刈る朝草原は、上堀金原へ入会権が認められました。このように、甚左衛門は、庄屋として人々の先頭に立ち、開拓に当っての種々の難事業を推し進め、中堀新田村の基礎を築きました。

略歴譜

生年不詳   松本四賀に生れる。
1687年(貞享4)   和田甚左衛門以下22人が、長尾組手代(大庄屋)に新切願いを差出す。
1687年(貞享4)   松本藩は、早速、土地割を命じ、これに基づいて開拓が進められる。
1687年(貞享4)4月   用水の確保に最も苦労し、呑水堰を59人で温堰尻から掘り抜く。
1688年(元禄1)   藩は、成相堰を鳥羽から分水して中堀堰を掘らせ、9町歩(9ヘクタール)余の水田化が実現する。
    薪と水田へ入れる刈敷を取る山は、烏川山へ入会うことが許され、馬草を刈る朝草原は、上堀金原へ入会権が認められる。
没年不詳   亡くなる。

参考文献

堀金村誌 堀金村誌編纂委員会・堀金村公民館/編 安曇野市立図書館

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