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騒動のあらまし

印刷用ページを表示する 掲載日:2017年11月14日更新

この騒動は貞享3(1686)年に松本藩に起こった百姓一揆で、「貞享騒動」とも「加助騒動」ともいわれています。貞享というは江戸幕府開府から80年ほどたった頃の年号で、4年間しかありませんでした。時の将軍は「生類憐みの令」で知られる5代将軍徳川綱吉。松本藩主は水野忠直で、参勤交代で留守でした。松本藩は代々譜代大名が藩主となっていました。譜代大名は幕府の御用も多く、藩士を多く抱える必要もあってか、松本藩の年貢は近隣の藩に比べて厳しく課せられていました。即ち70年ほど前に松本藩から分かれた諏訪領や高遠領の村々の年貢米は、当時のまま籾一俵は米二斗五升挽であるのに対し、松本藩では米三斗挽に引き上げられたままで、農民は苦しさを堪えて納めていました。

重い年貢に加え近年の不作が続き農民の生活は困窮を極めている中、藩はこの(貞享3)年の収納に当たっては、のぎ踏磨き(穂の先にある針のような突起を取る作業)と米三斗四・五升挽を厳命してきました。このような過酷な年貢取り立てに苦しむ農民を見るに忍びず、身を呈して農民を救おうと、多田加助を首領とする同志は10月、中萱の権現の森(熊野神社)に集まって密議し、二斗五升挽の要求等五ケ条の訴状をしたため、14日郡奉行へ訴え出ました。この企てが村々へ伝わると、農民たちはこれに加勢しようと、蓑笠に身を固め鋤や鍬を手に、城下へ押し寄せました。この突然の大騒動に狼狽した家老達は、鎮圧するためにいろいろな策を講じましたが、農民は聞き入れずその数は増加して万余に及んだといわれています。

困惑した藩側は16日夜、郡奉行の名で年貢は従来通り米三斗挽としその他の願いは聞き届ける旨の覚書をしたため、集まっている農民に文書を組手代に届けたと告げました。これを聞いた農民の大半は村々へ引き上げていきました。しかし加助ら同志と百数十人の農民は、あくまで米二斗五升挽の要求と、家老の証文を求めて留まりました。家老らは騒動が長引くことと、江戸表への直訴を恐れて18日に、米二斗五升挽の願いも聞き届けるという家老連判の覚書を出したので、加助ら同志と留まっていた農民は、安堵し村々へ引き上げました。

ところが藩はその後、村々から先に渡した覚書を返上させ、一方江戸へは真相を秘して注進した上、藩主の裁許を得て首謀者とその子弟を一斉に捕縛し、上土の牢舎へ投獄しました。そして数日後の11月22日、安曇郡の者は勢高の、筑摩郡の者は出川の刑場で処刑しました。その刑は磔8人、獄門20人という極刑で、百姓一揆史上稀にみる数でした。加助は磔柱の上から城をにらみ、二斗五升挽を絶叫しつつ息絶えたと伝えられています。