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伝説と旧跡

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

義民に関わる伝説


1 縁切り石

  10月14日早朝、加助らはいよいよ松本表へ訴えに出かけることになりました。越訴はご法度。訴えが聞き入れられても、聞き入れらなくてもどの道死罪は免れません。加助らは妻に離縁状を渡しての出立でした。しかし加助の妻お民さんは、死ぬならともにと聞き入れません。松本へ出る加助を追って島内の平瀬までやってきました。そこでお民さんはもう一度加助に死ぬなら一緒と頼みますが、加助は「ありがたいことだが、もし、お前が死ぬなら一緒というならば、他の仲間の妻たちも同じように願うだろう。そうすればより多くの人の命が失われることになる。ここは多くに人を助けるためと思って、離縁してくれ。」と言い聞かせ、お民さんも仕方なく加助に従ったのでした。その場所に小さな岩があって「縁切り石」とよばれるようになりました。
 

縁切り石

2 傾いた松本城

  加助らが処刑された場所は『勢高』と呼ばれるところです。松本城下を見下ろす高台でした。松本城は眼下に見えるのです。磔柱に縛られた加助は
「年貢は二斗五升びき、二斗五升だぞー」と叫び続けて息絶えたのです。加助の壮絶な最後は松本城を傾けたと言われています。
 しかしこれは、明治時代になって加助の物語が自由民権運動の中で芝居にされた際、加助の恨みが城を傾けたという話になったかと思われます。明治初頭、松本城は老朽化によって、大きく傾き今にも倒れそうな状態でした。そんな城の姿と加助の物語が融合して生まれた話と思われます。
 

3 加助らを助けようとした武士 鈴木伊織

  加助らの騒動に驚いた家老や奉行は江戸に参勤中の藩主忠直公に、年貢の引き上げやノギ取りを命じたことを正しく伝えようとしませんでした。そして今までと同じように年貢を命じたのに百姓が一揆を起こした事を知らせました。そうした報告を聞いて忠直公は厳しい罰を許可します。
  しかし武士の中にもそうした厳罰を持って臨むことはよくないと考えた人もいました。江戸に詰めていた鈴木伊織という人は、百姓の苦しい生活を思いやって、民の暮らしの立つような政治を願っていた一人でした。加助らの死罪が許可されて、松本への使者が江戸をたったあと、伊織は藩主忠直公をいさめて、厳しい処罰の中止の許しを得ました。伊織は自ら馬を駆って松本へ向かいますが、松本へ入ったところで馬が倒れ、伊織自身も疲れのため気を失ってしまい、ついに処刑の中止には間に合いませんでした。
 伊織の墓は、中央4丁目、中町を東に行ったところにあり、今でも花を手向ける人が絶えません。
 武士の中にもそういう人もいたのです。

伊織の墓