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古文書でたどる

記事ID:0055417 印刷用ページを表示する 掲載日:2019年8月7日更新

古文書

 貞享義民記念館の常設展示室には、騒動の発端から結末までの経過を説明した古文書が展示されています。

常設展示室に展示されている古文書
常設展示室に展示されている古文書

古文書1 10月13日の文書『御訴訟口上覚』(訴訟五か条)

 百姓を救うために加助たちは、死を覚悟で、2斗5升挽きなど5か条の願いを越訴しました。
 

古文書2 10月16日の文章『覚』(郡奉行の証文)

 事態を鎮めるために2人の郡奉行は、2斗5升挽きは認めないがその他の願いはすべて認めるという証文を出しました。

郡奉行の証文(古文書2)
郡奉行の証文(古文書2)

古文書3 10月17日の文書『一札』(郡奉行の証文有難く御請)

 この証文により大方の百姓は村に帰りました。そこで藩は、翌日村々から有難く受け取りましたという文書を出させました。
 

古文書4 10月18日の文書『覚』(家老連判の証文)

 一方加助らは、奉行連名の証文に満足せず、2斗5升挽きの願いを貫くために居残りました。藩は、いつまでも城下での騒ぎが続くと公儀がどのように思うか心配なので、すべての願いを聞き届けるので、早く村々へ帰るようにと、家老連判の証文を出しました。
 

古文書5 10月20日の文書『赤羽太郎右衛門日記』(家老連判の証文返上願)

 家老からの証文を受け取った組手代は、城下の代官のところへお礼に行きました。すると代官は、「家老連判の証文を持っているものは、悪党一味に見なされる」と威かし、証文を明日中に持ってくるように伝えました。
 

古文書6 10月22日の文書『百姓共口上之覚』

 藩の策略に謀られた百姓たちは、家老連判の返上を余儀なくされました。そして、年貢米は従来のまま(3斗挽き)に申しつけてくださいという文書を添えて、証文を返上しました。
 

古文書7 11月6日の文書『麻績組光村十月十八日ニ松本へ出申御改帳』(強訴人調査)

 続けて藩は、18日まで居残り強訴に加わった者の調査を開始し、どの村からも報告書を出させました。
 

古文書8 11月16日の文書『覚』(逮捕・籠舎の布告)

 役人が八方にとび、加助たち主だった者とその家族を捕らえ、城下の牢屋へと引き立てて行きました。

 【11月22日処刑】
 

古文書9 11月23日の文書『覚』(百姓共へ申渡す「覚」)

 処刑の翌日藩は、今回の騒動の経緯を郡奉行連名の文書を出し、広く人々に知らせました。
 

古文書10 貞享4年7月の文書『在々百姓共へ申渡す覚』(藩主帰国後の布告)

 騒動の翌年、藩主水野忠直は参勤交代を終え松本に戻りました。そして百姓に、一層耕作に精を出すことなどの心得を改めて伝えました。