本文
松澤 求策(まつざわ きゅうさく)
自由民権運動の先駆者
明治初期、国会開設・請願権の実現に向けた運動の中心人物として活躍。自身は志半ばで亡くなりましたが、全国的な自由民権運動の先駆者となりました。
1855年、等々力町村(現・安曇野市穂高)の出身。私塾で学ぶなど向上心が強く、板垣退助らにより広がりつつあった自由民権運動に関心を持ちました。
20代半ばの時、長野県民2万人余の署名を得た「国会開設ヲ上願スルノ書」を携えて上京。右大臣の岩倉具視と会うなど、必死の運動が報道されたことで国会開設の世論が湧き上がりました。また、郷里の義民、多田加助の物語を紙面上で連載するなど、民権運動の啓発にも注力しました。
しかし、その後は別の運動が大衆を扇動したとして逮捕されるなど不遇の扱いを受けます。
別件で獄中に入り、32歳の若さで生涯を閉じました。その2年後、大日本帝国憲法が発布され、翌年に帝国議会(国会)が開設。帝国憲法は、国民の権利が大きく制限されていましたが、求策らが求めた請願権は認められ、その後の国民運動の武器となりました。
ゆかりの場所
国会開設請願書と、委任状二万一千余通を携えて、松沢求策、上条螘司が出発する前日の五月二十二日、桐の湯で壮行会が開かれた。当日、女鳥羽川を渡る人たちの大半は、このために集る松本平の青年たちだった。桐の湯は、庭から表通りまで人が溢れた。
(小説『安曇野』第1部 その五より引用)
穂高交流学習センター「みらい」隣の三枚橋公園(穂高)には、昭和61年に求策の没後100年を記念した胸像が建立されました。志半ばで亡くなった求策の生涯と功績を今に伝えています。小説でも、求策らが活躍する場面が描かれています。
【写真:三枚橋公園にある松澤求策の胸像】