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木下 尚江(きのした なおえ)

記事ID:0110109 更新日:2024年2月9日更新 印刷ページ表示

民主主義と非戦の先達

 『安曇野』の作者、臼井吉見は第一部のあとがきで「主要人物は、木下尚江を中心に、中村屋夫妻、荻原守衛、研成義塾の井口喜源治の五人である」と述べています。「中心に」とあるとおり、尚江は幾度となく小説に登場。その尚江の生涯は68歳で閉じますが、37歳までの前半生と、それ以降の後半生とに大きく分かれます。

 松本市出身の尚江は、東京専門学校(現・早稲田大学)を卒業後、地元で新聞記者や弁護士として活躍。その後、東京で毎日新聞の記者となり、足尾銅山鉱毒事件問題や普通選挙運動に取り組みました。幸徳秋水らと、日本最初の社会主義政党である社会民主党を結成。1904年の日露戦争では非戦運動を展開しました。

 しかし、1906年に最愛の母を亡くした絶望から毎日新聞を退社し、社会主義運動からも退くようになります。心の安定を求めて岡田虎二郎の岡田式静坐法に入門。当時、荻原守衛が突然亡くなり、息子も亡くして失意にあった相馬良(黒光)に岡田式静坐法を紹介するなど、中村屋や相馬夫妻との交流は続きました。

木下尚江

ゆかりの場所

北深志天白町に、下級士族の長男として生まれた尚江は、奨匡社の準備会が開智学校で開かれたとき、そこの五年生であった。
(小説『安曇野』第1部 その六より引用)

木下尚江が生まれた松本市北深志には「木下尚江出生の地」の看板、「松本市歴史の里」(松本市島立)では移築復元された尚江の生家を見ることができます。安曇野市内で尚江ゆかりの場所を探すことは難しいですが、安曇野市も望める松本市城山(写真参照)には木下尚江顕彰碑があります。碑には尚江の辞世の句「何一つ もたで行くこそ 故さとの 無為の国への みやげなるらし」が彫られています。

木下尚江の碑

【写真:松本市城山にある木下尚江顕彰碑】​

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