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中村 不折(なかむら ふせつ)

記事ID:0110121 更新日:2024年2月9日更新 印刷ページ表示

中村屋ロゴ手掛ける 碌山とも親交

 書家・画家として知られる中村不折。小説『安曇野』では、主要人物である彫刻家の荻原碌山と親交のある人物として何度か登場します。新宿中村屋のロゴをはじめ、不折が手掛けた書は現在も身の回りで見ることができます。

 江戸時代末期の1866年、現在の東京都中央区で生まれましたが、明治維新の混乱を避けるため父の郷里である長野県高遠(現在の伊那市)へ移りました。伊那や飯田で教師を務めましたが、本格的に絵を学ぶため22歳のときに一念発起して上京しました。

 のちに碌山も通う画塾「不同舎」に入塾。正岡子規が編集する新聞で挿絵を描くなど活躍し始めます。36歳で絵を学ぶため渡仏し、2年後にニューヨークからやってきた碌山と親交を深めました。帰国後、夏目漱石の小説『吾輩は猫である』の挿絵など、多くの作品を世に送り出しました。

 不折は質素な生活を続け、稼いだお金を書道の資料収集に費やしたことでも有名です。不折のコレクションは現在、台東区立書道博物館(台東区根岸2丁目10番4号)で見ることができます。

中村不折

ゆかりの場所

檜板の看板に、中村不折の書を乞いたいという案を出したのは、良であった。不折は、太平洋画会研究所で、守衛の大先輩であり、同郷の出身者でもあったので、中村屋とも顔馴染になっていた。
(小説『安曇野』第2部 その二十一より引用)

中村不折は引用のとおり新宿中村屋のロゴを手掛けたほか、安曇野市穂高にある荻原碌山(守衛)の墓の墓碑銘も書いています。長野県内との関連では、宮坂醸造(諏訪市)の日本酒「真澄」の題字も不折による書です。

碌山の墓 

【写真:荻原碌山(守衛)の墓の墓碑銘】​

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