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広報あづみの連載 小説『安曇野』を読もう【第2部】
『安曇野』は明治から昭和にかけての日本を舞台に、実在する人物たちの活躍する様子が描かれている読みごたえのある作品です。広報あづみので16回にわたり『安曇野』のあらすじ・見どころを紹介してきました。筆者は、元安曇野市文書館 館長の平沢重人さんです。
第2部(その一〜その五)
守衛(碌山)、ロダンと出会う
第2部は、荻原守衛と中村彝、中原悌二郎が彫刻家・ロダンを語る場面から始まります。悌二郎が「パリの春のサロンでロダンの『考える人』にめぐり合ったのが、彫刻家になろうとした機縁らしいですね」と守衛がロダンに魅了された経過を話します。そこに「それからは寝ても醒めてもロダン、ロダンということになってね」と彝が続けます。すると、守衛もロダンの芸術を熱く語り、三人の議論が始まります。そして、物語は絵画の研さんのために渡米した守衛が彫刻家に転向する場面へと展開していきます。
その四では、守衛が碌山を名乗るようになった出来事に触れています。パリに渡り、制作に励む一方で夏目漱石にも興味を示していた守衛。友人の斎藤与里が漱石の小説『二百十日』の登場人物をまねて守衛を碌さんと呼んだことをきっかけにして、自らも碌山と名乗るようになったと記されています。その四の終わりには、パリに来た高村光太郎が制作中の守衛の作品「坑夫」を絶賛し、石膏にとって日本に持ち帰るように勧めています。
その五には、臼井吉見が小説『安曇野』執筆の動機となったエジプトカイロ博物館での守衛と木彫村長像との出会いの場面が記されています。
坑夫
荻原守衛の代表作品。穂高東中学校に立つブロンズ像の裏面には、寄贈した相馬良の言葉が刻まれています。
「坑夫」は明治四十年荻原守衛が渡仏中の作品で我が国に近代彫刻の道を拓いた不滅の傑作である(以下略)

第2部(その六〜その一二)
日本初の公害事件が展開
群馬県を代表する伊香保温泉での生活をスタートさせた木下尚江の物語が、中原悌二郎と中村彜、荻原碌山の会話からスタートします。尚江が妻・操子を連れて伊香保にこもった本心を「功名心」というキーワードで語っていきます。
その八、主役は田中正造に移ります。日本初の公害事件足尾銅山鉱毒事件です。この事件は、銅採掘に起因する廃鉱石による渡良瀬水系の汚染問題、煙害による樹木の枯渇です。この事件の本質的な解決を訴え続けた田中正造の姿を通して、新生日本の政党政治や労働運動の危うさについて明らかにしようとします。「あいつらは悪人じゃない。知らないのだ。本の二三冊読んだといって、いろはもわかっちゃいませんよ。」と正造は語ります。
その九、水没廃村の危機に直面している矢中村について尚江は「諸君とわたしとの間に大きな距たりがあることです。諸君は全身で暮らしている。わたしは口さきだけだ。諸君は、大地を大股に歩いている。(略)無力な卑怯者のくせに自分では善人で正義の味方だなどと錯覚している。」と自分の傲慢さを集会の場で語ります。
臼井吉見は、この七つの章で日本が日露戦争に勝利し、朝鮮半島や満州へと支配を伸ばしていく中で、つつましく生きる民衆の姿を表現していきます。
その一三からの主役は、いよいよ荻原守衛(碌山)。巻末の二五まで、一気に読み進めることができます。
木下尚江の生家
明治2(1869)年に生まれた木下尚江の生家。松本市天白町(現在の松本市北深志)にありましたが、昭和58(1983)年に「松本市歴史の里」(松本市島立)へ移築されました。
第2部(その一三〜その二六)
荻原守衛(碌山)の死
帰国した守衛が発した「安曇野がれんげの花が埋まるころ、雪の消えて残った常念岳や鍋冠山(なべっかぶりやま)が、すぐうしろにひかえてさ、こんな美しいところは、どこにもないよ」は、小説『安曇野』の名文のひとつと評され、その一三に登場します。その一五では、守衛の歓迎会が穂高で開かれます。安曇節を舞う井口喜源治、「常ときわず盤樹」を吟じる手塚縫ぬいぞう造など、守衛が多くの人たちから愛されている様子が伝わってきます。
また、守衛のアトリエが新宿に進出した「中村屋」の近くに完成。守衛は、そのアトリエを「オブリヴィオン(忘却庵)」と名付けます。守衛が忘却したい対象は何だったのでしょうか。
その二〇から二五までは、「文覚」「デスペア」「北條虎吉像」「労働者」そして「女」の制作に没頭する守衛がつづられています。
そしてその二五「病人は無意識に両手をのばした。孤こがん雁はつかまえて、かたく握りしめた。病人はごくんといきをしたきり、そのまま呼吸がとまってしまった。」と守衛が息を引き取る場面が描かれています。こうして第1部を書き終えた後、病床にあった臼井吉見が「命があるうちに、せめて碌山の死まで書きたい」と切望した第2部が終わります。
舞台が大正時代へと進む第3部は、主な登場人物が次々と命を落とす激動の巻になります。
「荻原守衛」の詩碑

1936 年に高村光太郎が詠んだ碌山美術館東庭にある「荻原守衛」の詩碑
