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広報あづみの連載 小説『安曇野』を読もう【第4部】
『安曇野』は明治から昭和にかけての日本を舞台に、実在する人物たちの活躍する様子が描かれている読みごたえのある作品です。広報あづみので16回にわたり『安曇野』のあらすじ・見どころを紹介してきました。筆者は、元安曇野市文書館 館長の平沢重人さんです。
第4部(その一〜その九)
良の一挙手一投足に注がれる言葉
第4部の時代背景は昭和、日本の敗戦までとなります。相馬夫妻は9人の子どもと12人の孫に恵まれますが、戦火に命を奪われた者も多くいます。昭和18年に松本五十連隊の陸軍少尉として応召された臼井は、部下を戦地へと送り出します。「なぜ日本は若者を無駄死にさせたのか」と臼井が言い放つ問いは、この『安曇野』執筆の動機ともなっています。
この巻の前段は、相馬夫妻の子どもたちの物語です。その二は、愛蔵と良の言動が和子(長男安雄の妻)を通して記されます。「愛蔵ほど哀れな夫、無力な親はなかった」と語ります。その八は良と五男・虎雄との確執です。「虎雄の怒鳴る声がつづいた。物を投げつける音がし
て、良が階段をおりてくるのを追っかけて、座ぶとんがとんできた。つづいて鏡餅がころがってきた」など、4頁に渡ります。
その五、六は場面が大きく展開します。清澤洌と斎藤茂の対話です。この二人は井口喜源治設立の研成義塾の卒業生です。昭和7年10月脳出血にて倒れ床に伏している井口の枕元で、甘粕事件や教員の赤化事件、川井訓導事件、ジャーナリズムの罪悪を語り合います。特に赤化事件では、南安曇郡下の学校でも多くの教員が検挙された様子が詳細に記されています。
「雪野」

「雪野」八十二文化財団『早逝の大器山口蒼輪展』より
川井訓導事件の当事者である川井清一郎は、絵画を嗜んでいました。堀金の山口家に生まれた山口蒼輪(本名・肇)は、川井の教え子です。蒼輪の絵画への萌芽は、川井との出会いなのかもしれません。
第4部(その一〇〜その一六)
木下尚江が主役
臼井吉見文学館には石川三四郎の扁へんがく額「最善政府即最悪矣不尽」(不尽は三四郎の雅号)があります。三四郎は大逆事件で衝撃を受け、8年間のヨーロッパ生活を選択したアナーキストです。帰国後、三四郎が語った「人間は生きよう、生きようとして死んでいく。平和を、平和をと呼びかけながら戦っている。自由よ、自由よと叫びながら囚われて行く」は、この小説の主題と言ってもいいのかもしれません。
三四郎に続くように木下尚江が登場し、彼の生涯が自身や良の言葉で語られていきます。子犬の絵がついた児童用帳面に尚江が記した数多くの歌には、妻・操子や母への思い、日常の情景が映し出されています。そしてその一三では、尚江の最期が丁寧に記されています。
尚江の物語の合間には、相馬愛蔵が熱望して設立した中村屋で働いている若者のための研修施設「中村屋研成学院」や、松本中学校の一年先輩であり筑摩書房創業時の顧問であった唐木順三が登場します。
その一六では「大本営陸海軍部発表、帝国陸海軍ハ今八日未明、西太平洋ニ於テ、米英両軍ト戦闘状態ニ入レリ」と物語は戦争の時代へと突入していきます。
研成学院

昭和12年に開設された研成学院の学習風景(新宿中村屋(株)提供)
中村屋は少年諸君のために学校を開いて、これに「研成学院」と命名した。私が幼年のころ学んだ小学校が「研成学校」であり、青年時代に同志と共に創立したのが「研成義塾」であって、私と研成といふ名には離れられない因縁があるらしい。(『一商人として』昭和一三(一九三八)年岩波書店)
第4部(その一七〜その二四)
新型爆弾、ソ連参戦そして玉音放送
怒濤の南下侵攻でシンガポールを陥落させた日本軍。東条首相は貴衆両院の本会議場で勝利を宣言し、インド独立の援助を表明します。しかし、インド独立運動の中軸にいたラス・ビハリ・ボースは断じて日本の言いなりにはならないと決意します。そして、良が「この日を決して忘れない」と語った開戦翌年の昭和17年4月18日、東京に警戒警報が発令され、日本は米軍から初めて空襲を受けます。
第4部の終盤はミッドウェー海戦や原子爆弾投下、ソ連参戦、玉音放送など戦争の描写が続き、最後はマッカーサーが登場します。
その二一では清澤洌と斎藤茂が戦時下の政局や言論、国民意識の実情を書簡で語り合います。二二では体調不良が続くボースが長女哲子と穂高の相馬家を訪問。ボースが哲子に語り掛ける安曇野の風景や人々の営みが愛おしく感じられる章です。最終章二四では東京大空襲により
中村屋が焼失します。6月11日愛蔵は「中村屋は解散しても、お互いよく連絡をし合ってきっと生きぬきたい。生きぬかなくてはいけないと思います。長いことご苦労さまでした。ではさようなら。」と最後まで残ったスタッフ89人に中村屋の解散を告げます。
清澤洌書簡

清澤洌書簡 斎藤茂宛(文書館 中島博昭氏資料)
研成義塾の同人誌「天籟(てんらい)」の編集をしていた斎藤に清澤が次号発行を促しています。
