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水が消える川って…?
不思議がたくさん。
安曇野の田んぼの水のお話。
安曇野では流れてきた川が、消えてしまう大自然のマジックが見られます。
三郷地域を流れる黒沢川、堀金・穂高地域の烏川(からすがわ)などを代表として、北アルプスに源を発する安曇野の川のいくつかは、途中で水がなくなったり水量が激減したりしています。なぜ途中で水が消えてしまうのか……。このなぞを解くキーワードは「扇状地」です。
川の流れにより山から運ばれた砂や小石が、急斜面から平たく開けた場所で次々とたまり、扇状地を作ります。扇状地の地質は小石と砂の交じった砂礫(されき)で、安曇野はいくつもの扇状地が重なり合う複合扇状地であるため、ここで川の水は一気に地表から地中へと、しみ込んでしまうのです。
このように扇状地は水を保つことができず栄養も少ないため、最も米作りに向かない土地のはず。それなのに今、安曇野には豊かな田園風景が延々と広がり、信州で最大の米どころとも言われるのはなぜなのでしょう。
長峰山頂から見る安曇野の扇状地
安曇野は昔から、肥沃な土壌があるにもかかわらず水がなかったため、江戸時代などは年貢米はもとより自分たちで食べる米にも苦労した土地でした。寝る間を惜しんで働いても、干ばつ(日照り)や冷害、大雨による川のはんらんなど天災の前に、村人はなすすべもありませんでした。
「うちの集落(川下)まで水を引いてもらわなければ、育った稲が全滅してしまう…」「いや、下の集落に水を分ければ、うちの集落(川上)の稲が枯れる」。こうして“命の水”を必死に取り合う人々。話し合いでは収まらず争いに発展し、うらみがつのってケガ人や死人まで出るようになっていました。
この長い間絶望的だった農業用水の問題を解決して、今の田園風景をつくる基盤となった奇跡の水路があります。それが江戸時代後半の1816年(文化13年)、住民たちの手で開削(かいさく)された拾ケ堰(じっかせぎ)です。堰(せぎ)とは、ここでは田に水をひくための水路をいいます。
現在のゆったりと流れる拾ケ堰
「拾ケ堰」は平成23年度、小学3・4年の教科書でも紹介されています。
全国でつくられた多くの堰の中でも、安曇野の拾ケ堰は、先人たちの深い知恵と高い技術、目標を掲げて協力し合う尊さにおいて、将来まで語り伝えたい歴史の実話として取りあげられているのです。
拾ケ堰の全長は15キロメートル。松本市の島内地区で奈良井川の水を取水し、安曇野の田を潤して烏川に流れ込むまで、昔あった10の村をたどるように、今もゆっくりと流れています。
地元の人に「じっか」と親しみを込めて呼ばれるように、指導者の個人名などではないところにも、10カ村の農民たちが、自分たちの力でつくったという誇りが感じられますね。
中島輪兵衛が使った計測器
今は、堰に沿って整備された道をウォーキングしたりサイクリングしたりしながら、安曇野の風景をのんびり楽しむ人々の姿が見られます。水はゆったりと、周囲の風景を映しながら静かに流れています。
まさに安曇野らしい美しい水の風景ですが、ここで注目したいのは、このゆるやかな傾斜です。
15キロメートルの堰は、ほぼ標高570mの等高線に沿って開削されています。この微妙な傾斜は、なんと1キロメートル進んで30センチメートル余り下がるだけというわずかな高低差しかないのです。
当時、地形を計るのに使われたのは、驚くほど単純な形の木製の計測器でした(左)。こんなに簡単な計器で、15キロメートルの長さを18日間で測量したという記録があります。いったいどのようにして精密な傾斜を導き出したのでしょうか。
もちろん江戸時代にショベルカーやトラックなどはなく、鍬(くわ)やつるはしなどを使って人力で掘り進めました。土砂を運ぶのも人の力だけ。木の棒を2人で担ぎ、間に縄で編んだ網を吊した「もっこ」などで運びました。工事にかかわった人は村の人、周辺の村人も合わせて67,112人。1816年の2月11日から工事を始め、ちょうど3カ月後の5月10日に完成。驚異のスピードです。人の力は偉大ですね。
交差する模式図
細かく278の工区に分けられた工事には、いくつもの難関がありました。まず奈良井川の水の取り入れ口付近では、高い崖を切りくずさなくてはならず、大勢で力を出し尽くして挑みました。
最大の関門は、大きな流れの梓川を堰が横切ることです。人々は竹で編んだ籠に石を入れた長い「蛇籠」(じゃかご)や、数個の蛇籠と竹枠を組み合わせた「牛枠」(うしわく)で、水を堰(せ)き止めて川と堰を交差させました。奈良井川から引いた水は横断し、梓川の上流からの水は牛枠の間や上を流れていく。この素晴らしい知恵と行動力に、頭が下がりますね。
さらにそれまでにあった36カ所もの用水路と拾ケ堰を交差させるために、木で拾ケ堰の水を通すトンネルを造り、高低差を工夫して調節しながら何度もやり直して水を運んだのです。
わずか3カ月で工事が完了したのは、事前の綿密な測量と設計があったからこそ。ほぼ570メートルの標高線に沿って、ごくごくわずかな傾斜で精密に掘り進んだ拾ケ堰によって、300ヘクタールの水田が開かれました。
団結にあたってのまとめ役は柏原村の庄屋・等々力孫一郎でした。幕府への交渉役としても奔走し、経費の約半分(400両)を幕府から10年分割で借り入れました。
立案者のリーダーは、柏原村の中島輪兵衛です。農民の幸せを思い、その生涯を拾ケ堰を始めとする公共事業に捧げました。
拾ケ堰によって潤される田の面積は今、当時の3倍以上の約1,000ヘクタールとなっています。平成18年には、農林水産省の「疎水百選」にも選ばれました。
今、この歴史ある堰を守り次代に伝えようと、さまざまな市民活動が広がっています。
「拾ケ堰応援隊」や安曇野ブランドデザイン会議の「拾ケ堰景観形成プロジェクト」では、自然観察会や草刈り作業、さまざまなイベントなどを開催し拾ケ堰に関わっています。
「拾ケ堰応援隊」および「拾ケ堰景観形成プロジェクト」の活動の様子
ここにもう一つ、私たちの心に響く水にまつわる話を紹介しましょう。
それは、拾ケ堰の開削から16年後の1832年、現在の明科地域に開削された「五ケ用水」の物語です。
江戸時代の1832年、庄屋の牛越茂左衛門らが中心となり、池田村の村々にも協力を求め開削した用水路。明科地域押野地区の内川から取水し、小泉地区で犀川に合流。幹線の総延長は、約12キロメートル、灌漑面積は約100ヘクタール。押野、塩川原、荻原、中村、小泉の各地区の水田を潤しています。