市内のそれぞれの地区には、かならずと言ってよいほど神社やお寺があります。
このなかには、今から500年ほど前の中世(ちゅうせい)という時代から、ちいきの人びととかかわりをもっていた所もあります。そのことは、「古文書(こもんじょ)」という、当時の人びとが書いた手紙など、古い文書から知ることができます。
三宮穂高社御造宮定日記(さんぐうほたかしゃごぞうぐうじょうつのき)
穂高神社(ほたかじんじゃ)につたわる中世の記ろくからは、あづみのやそのまわりにあった村が、穂高神社(ほたかじんじゃ)のお祭りにかかる費用(ひよう)を出しあっていたことがわかります。
穂高の牧(まき)にある満願寺(まんがんじ)には、中世の終わりにあたる戦国(せんごく)時代に書かれた古文書がいくつかのこっています。このころ満願寺(まんがんじ)では火事がおこってお堂(どう)などの建物がやけてしまったようです。「松本城の城主(じょうしゅ)であった小笠原貞慶(おがさわらさだよし)は、お寺を完成(かんせい)させるために、安曇郡(あづみぐん)や筑摩郡(つかまぐん)の大工(だいく)さんに協力(きょうりょく)させました。満願寺はこのころから松本平じゅうの人びとに信仰(しんこう)されていたようです。
日岐盛直 神田寄進状(ひきもりなお しんでんきしんじょう)
明科(あかしな)東川手(ひがしかわて)の“潮神明宮(うしおしんめいぐう)”には、日岐盛直(ひきもりなお)という武将(ぶしょう)が、神主(かんぬし)にお宮(みや)と田んぼを寄付(きふ)することを約束(やくそく)したことを書いた古文書(こもんじょ)がのこっています。
私たちの身近にある神社やお寺が、武士など力のある人たちに守ってもらったり、ちいきの人びとにささえてもらったりしながら、中世という時代を生きぬいてきたことがわかります。
中世から現在まで何百年ものあいだ、私たちの先祖(せんぞ)が守り続けてきた神社やお寺、そしてそこに伝わる古文書などの文化財(ぶんかざい)は、これからも大切にしてみらいの人たちに引きついでいきたいものです。