安曇野(あづみの)に田んぼが広がる風景(ふうけい)は、いつごろからできあがったのでしょうか?
もともと安曇野で田んぼがつくれる場所は、あまり多くはありませんでした。川が近かったり、わき水があったりして水がゆたかな所もありましたが、しぜんのままにしておいては、まったく水が来ないところもありました。
拾ケ堰(じっかせぎ)のまわりに広がる田んぼ
広い地域(ちいき)にわたって田んぼがつくられるようになったのは、近世(きんせい)という時代でした。みなさんが江戸(えど)時代とよんでいる時代がそれにあたります。このころ“堰(せぎ)”という用水路がさかんにつくられるようになりました。
はじめのころの堰は、水を高い所からひくい所へ流す“縦堰(たてせぎ)”でした。しかし、これでは堰の水路ぞいのかぎられた所にしか水を送ることができず、広いはんいで田んぼをつくることはむずかしかったのです。
やがて技術(ぎじゅつ)の進歩(しんぽ)によって、“横堰(よこせぎ)”がつくられるようになりました。“横堰”は等高線(とうこうせん)にそって、ほぼ同じ高さの所を流れるので、“横堰”よりひくい所なら広く水を行きわたらせることができます。この“横堰”のおかげで、田畑をつくれる場所も広がり、やがて安曇野にゆたかな田園の風景(ふうけい)が見られるようになりました。矢原堰(やばらせぎ)と拾ケ堰(じっかせぎ)は安曇野市を代表する“横堰”です。
しかし堰をつくる工事には、多くのお金と人手がかかりました。また、せっかく堰をつくったのに、水が流れず、工事がしっぱいすることもあったとつたえられています。今では長野県で一番の米どころとなった安曇野ですが、これまでには人びとのたいへんな苦ろうと努力(どりょく)のつみ重ねがあったのです。