本文
望月桂は、明科出身の画家で、アナキストとしても知られています。また、犀川凡太郎の名で社会風刺の漫画も描いていました。今回の企画展では、安曇野市ゆかりの人物である望月桂にスポットをあてるとともに、当館へ寄託された日記や原稿等の文字資料を中心に、望月の思想や活動の一端を紹介します。また、望月は自分の生涯や思想を、多くの日記や回想録に書き残しています。明治・大正・昭和を生きた望月が残したもの(書き残したもの)を通して、現代の私たちへのメッセージを探ります。
期間 令和8年5月10日(日曜日)から8月30日(日曜日)
午前9時から午後5時まで
休館日:土曜日、祝日
場所 安曇野市文書館1階閲覧コーナー
費用 無料
令和8年度安曇野市文書館前期企画展チラシ [PDFファイル/3.49MB]
望月桂は、明科出身の画家で、アナキストとしても知られています。また、犀川凡太郎の名で社会風刺の漫画も描いていました。望月に関する資料は、令和4(2022)年から現在まで望月桂調査団(代表・二松学舎大学 准教授 足立元 氏)による悉皆調査が行われています。また、令和7(2025)年3月にはご遺族から安曇野市教育委員会へ資料が寄託され、絵画資料は安曇野市美術館に、日記や原稿等の資料は当館に収蔵されました。
今回の企画展では、安曇野市ゆかりの人物である望月桂にスポットをあてるとともに、当館へ寄託された日記や原稿等の文字資料から、晩年の安曇野での活動を中心に、その人間観、社会観、生きざまに迫ります。また、望月は自分の生涯や思想を、多くの日記や回顧録に書き残しています。なぜ望月は多くの手稿を残したのか。望月が残したもの(書き残したもの)を通して、現代の私たちへのメッセージを探ります。
望月桂は、明治20(1887)年1月11日 (※)に東筑摩郡中川手村(現 安曇野市明科)に生まれました。望月は晩年、自身の生涯を「桂記録年譜」(全5冊)にまとめています。ここでは望月の生涯を、「桂記録年譜」に書かれているエピソードとともに年表形式で紹介しています。
※ 望月桂の戸籍上の生年月日、実際の生年月日は明治19(1886)年12月23日。本展示では、「桂記録年譜」の記載が明治20(1887)年1月11日から始まっているため、戸籍上の生年月日を採用する。
昭和16(1941)年、望月は知人の依頼を受けて、高島屋工業株式会社の明正寮の舎監と付属青年学校の教諭となりました。望月は、敗戦までの4年間を「隠れ蓑時代」と呼んでいます。望月は、親元から離れてともすれば荒みがちな十代の子どもたちを相手に、不正や非行をただし真剣に叱る一方で、親代わりになって面倒をみました。
昭和19(1944)年になると、戦局は悪化の一途をたどり高島屋工業赤羽工場も空襲を避けて地方に疎開することになりました。適地探しは軍の横やりなどで難航しますが、旧友の平林盛人陸軍中将(旧制大町中学時代からの親友、松本市長を経て昭和20(1945)年に長野師管区司令官に転出)の力を借りて、望月の故郷、中川手村と隣村の東川手村の国民学校の校舎に工場を構え、東京から移転することができました。昭和20年5月、寮生130名を迎えて明科工場が操業を開始し、望月は敗戦までの3か月、工場長として工場を切り盛りしました。そして昭和20(1945)年8月15日、太平洋戦争の終結を望月は故郷で迎えました。
戦後も望月は戦争や平和を題材に、文章や絵を書いています。そこには一貫して、戦争を嫌い、平和を願う思いが読みとれます。平和とは「一口に言えば自由に楽しめる世だ」(「随筆11」(望月桂関係資料363)より)。
戦争が終わり、高島屋工業の中川手・東川手工場は閉鎖され東京に戻っていきました。望月は工場の後始末が終わると、東京時代のかつての仲間たちの上京をうながす声を振り切って、生家で土に生きる生活を選びます。
そして、帰農した望月は、村人たちとの新年会で「組織力を持たない俺達は、一番弱い立場だから、お互に結束する事を考えよう。」と話し、自ら農民組合の組織化に乗り出しました。こうして始まった農民組合運動は、中川手、東川手から、東筑は勿論、南安、北安地区まで拡大していきました。農民組合の結成にあたって望月が主張したのは、政党の影響を離れた自主的な農民組合でした。戦前の東京での望月の社会運動の経験と思想が色濃く反映され、安曇野において実践された結果といえるでしょう。また、農民を説得し耕地整理や客土(土壌改良)、農道整備など農民総出の土地改良事業を提唱し成功に導きました。
さらに、中川手村農地委員会が結成されると、望月は推薦によって自作農委員となり、さらに農地委員会々長に推されました。以後、昭和26(1951)年からは農地委員会を引き継いだ農業委員会々長を務め、その在職期間は1946~1955年の10年間に及びます。その間、70回余りの委員会をほとんど皆勤して委員会の議論をリードし、多くの議案が望月の提案の通りに満場一致で可決されました。戦後の悪性インフレによって、政府による小作地買収価格は「タダ同然」となり、多くの地主が売却に抵抗する姿勢を示しましたが、望月は粘り強く小作農民の解放、農村民主化のための改革に身をもて邁進しました。
昭和30(1955)年4月から昭和40(1965)年3月に退職するまでの10年間、望月は松南高等学校(平成22(2010)年閉校)の美術教師を務めました。当時の大和喜真太校長が、ある時、望月に「女子教育ともあろうものが、絵一枚無いのはどうした事か」と言われたことを受け、美術教科を新設し、望月に是非にと美術教師をお願いしに来たのがきっかけでした。60代後半ということもあり、はじめは望月も断りましたが、軌道に乗るまでの手伝いという事で承諾します。週2回の気楽な勤め、と始めた美術教師でしたが、本人いわく「何か一つにぶつかると、他人事ではなく徹底的にやろうとする性格」のため美術教育にのめり込んでいきます。
望月は晩年、安曇野で起きた「大逆事件」と「貞享騒動」に深い関心を持ち、 探求の成果を地図やノート等にまとめています。
大逆事件と貞享騒動、時代も背景も大きく異なるこの2つの事件を通じて、望月は、自由と人権を求めて権力と戦うことの偉大さ、道に斃れてもその思想は無限に伝えられていくことへの希望を語っています。80代半ばを過ぎた晩年の望月が自らの責務としたのは、共に歩み無念のうちに死んでいった仲間を偲び、彼らの生き様や想いを後世に伝えていくことであったようです。
望月は、絵画・漫画は当然のこと、社会活動にかかわっての評論、随筆、日記など実に数多くの手稿を残しました。本展示では、その一部を紹介します。
こうした回顧録、随筆以外にも「犀川日誌」(全3冊・昭和20年(1945)~戦後の日記)、「老いの句等誌」(全4冊・昭和41(1966)年~、俳句・川柳の句誌)などがあります。
こうした望月の手稿(随筆・回想録・年譜など)を見比べると、記録のほとんどが昭和40年代に入って(=80歳を過ぎて)書き始められている事、同じ出来事や人物についての記述でも内容が異なっていて、記憶を整理し資料を見ながら書き直していることに気が付きます。望月はなぜこれほど多くの手稿を、しかも丁寧に残そうと思ったのか。何を伝えたかったのか。活字化して世に出すことこそありませんでしたが、後世に誰かが読むことを意識して書かれたものだと推察されます。80年余の人生を振り返り、伴走者として、語り部として、共に歩いた友人、同志たちのことを次世代に語り伝えることが彼の願いだったのではないでしょうか。
←望月桂が残した回顧録等
*下記の講演会・講座は終了しました。
【日時】令和8年6月21日(日曜日)午後1時30分~午後3時(開場 午後1時)
【講師】
谷口 英理 氏(独立行政法人国立美術館 国立アートリサーチセンター 主任研究員)
山永 尚美 氏(独立行政法人国立文化財機構 東京文化財研究所 アソシエイトフェロー)
【開催日時】令和8年7月26日(日曜日) 午後1時30分~午後3時(開場 午後1時)
【講師】 足立 元 氏(二松学舎大学准教授、望月桂調査団代表)
【開催日時】令和8年5月17日(日曜日) 午後1時30分~午後3時(開場 午後1時)
【講師】 三澤新弥(文化課長)
期間 7月4日(土曜日)~8月30日(日曜日)
会場 安曇野市美術館第5・6・7・8展示室、大展示室
期間 7月4日(土曜日)~8月30日(日曜日)
会場 杜江館一階
足立元・望月桂調査団 編『望月桂 自由を扶くひと』(平凡社)
・A5判(ソフトカバー)
・176ページ
・価格:3,500円+税
本展にあわせて刊行される図録兼書籍。望月桂の代表作品、関連資料、論考を収録し、その活動を多角的に紹介します。