ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

本文

安曇野の講

記事ID:0086892 更新日:2022年4月1日更新 印刷ページ表示

人々を結んだ講の存在~安曇野の講~

豊科郷土博物館 倉石あつ子

 

1 はじめに

 安曇野には、かつて多くの講が存在していた。講とは目的を同じくする人々が集まって、神仏を祭ったり、金銭の積み立てをしたりするものである。その機能は、

1 地域社会の安全や農作物の豊饒を願って結ぶ信仰的な講

2 頼母子講などのような経済的互助組織としての講

3 労働力の交換のために結ぶモヤイ講

などに分類することができる。安曇野の場合は、多くは1に分類できるもので2はほとんど見られず、3は庚申講などがその代表的なものとして存在する。

 一般的に2に分類されるものとしては、頼母子講・無尽講などがある。一定の期日を決めて集まり、皆が掛けた資金の一部をくじ引きによって融資してもらうという経済的な互助講であり、商人・職人などが組織することが多かった。現在は、町内会や商店会などが組織している場合もあり、積立によって旅行に行くことなどを目的にしていることも多く、くじ引きで融資してもらう。と言っても実際には、順番で融資を受ける形をとっているところも増えている。全国的にみると、奄美・沖縄地方の人々は県民の過半数がモアイと呼ぶ頼母子講に入っているとも言われ、参加率は高い。一人が複数の頼母子講に加入している例もみられる。また、千葉袖ヶ浦の「貯金講」、石川県加賀市あたりでいわれる「預金講」などの呼び名からも見られるように、貯蓄を目的とした講へと変化している例もみられ、旅行などに使用することを目的とするほか葬式などができた時の積立としているところも多い。安曇野では頼母子講は聞くことができなかったが、個人個人を詳細に聞き取りしてみると、出てくる可能性がないわけではない。

 3に関するものとしては、モヤイ講などが代表的なものとして存在する。協同労働を行うための組織化されたものだが、田や山を共有し労働力を提供し合う。モヤイ漁・モヤイ狩などもあり、収穫物は平等に分配する。葬式を行うための無常講なども、労力を無償で提供し合い、合力によって一つの仕事をなすような仕組みとなっている。労働力の交換を前提として交わされるユイとは、異なる。特に葬式が発生した折には、無償で助け合う仲間が必要であり、労力のみでなく食材なども持ち寄って助け合った。念仏講・庚申講などと呼ぶところもあり、組と講の構成員が一致している例も多い。

 1に分類される講は、『日本民俗大事典』「講」を執筆した宮本袈裟雄は、更にこの中を

 

○ 自然信仰の系譜に属する講

○ 生活活動に伴い豊饒・豊漁を願う講

○ 仏教信仰にもとづく講

○ 道教の系統に属する講

○ 名社・大社の神を勧請した講

 

の5つに整理している。ただ、この分類も複雑で、信仰系統によって分類するのか、職業集団によって分類するのか、講の機能によって分類するのかは研究の目的によっても大きく異なるところであろう。講名をあげただけでも子ども講・女人講・老人講などのように年齢別、男女別の分類もできることが分かる。前述したような講の他に上がっているものを拾い出しただけでも、報恩講・題目講・身延講・お十夜講・御嶽講・扶桑講・水神講・海神講・月待講・日待講・田の神講・船霊講・山の神講・観音講・薬師講・地蔵講・不動講・大師講・稲荷講・伊勢講・天神講・富士講などがあり、そのほかにも大山講・榛名講・三峰講などなどがあげられるので、その種類は多い。

 これらの講を組織している人々は、日常生活地域を基盤にしている場合が多いが、地域外の人々―たとえば居住地と少し離れた場所の同業者など―と組織することもあり、講員の範囲も大小さまざまである。また、庚申講などのように居住地の中で講が完結しており、講員も組の構成員と一致しているような場合もある。したがって、講に関してはすっきり分類して整理することが難しく、一年に何回か講が開かれる庚申講のような信仰形態もあれば、富士講のように講員の何人かが代表で参拝する代参という方法もあり、これもまた一様ではない。代参をするための資金積み立てのために無尽が行われる例もあり、遠くの寺社から勧請している神を祭る場合、純粋な信仰のために参拝することに加え物見遊山を兼ねて講員が交替で代参するという行楽的な面ももっている。

 

2 安曇野の講

 

 前項で講の概略を述べたが、では、安曇野にはどのような講が存在していたのだろうか。『南安曇郡誌』(大正十ニ年十月十五日刊行 昭和四十三年十月五日刊行)に記載の講と聞き取り調査によって得られた講名は、庚申講、太子講、甲子講、二十三夜講、念仏講、★伊勢講、★三峯講、★戸隠講、秋葉講、★御岳講、八幡講、山の神講、えびす講、金山講(★印は代参でお参りする)などである。現在、これらの講はほとんどの講が行われなくなり、かろうじて残っているのが庚申講、甲子講、念仏講などである。安曇野の多くの家が第一次産業に従事し、隣もそのまた隣もムラ全体が我が家と同じような暮らしをしていた時代は、それぞれのイエの願いも同じようなものであった。ムラの安泰を願い、畑作物の豊穣を願い、養蚕の豊穣を願い、ムラ人や家族の健康を願うものであったが、日本の高度経済成長期は安曇野の家々にも影響を与え、それぞれの暮らし向きは都市化(註1)した。朝起きる時間も夜寝る時間も耕作地につくるものも、ムラの中の家々はほとんどが似たりよったりの状態であった。楽しみはムラのお祭りを楽しむ日は、みんなが楽しむものとされ、「怠け者の節供ばたらき」などと言われたものであった。ムラによっては、休日に働くと若い衆などが罰を与える事もあり、働くのも休むのも横並びが尊重されていた。そうした暮らしは、昭和30年代ごろから緩やかに変わりはじめ、各イエには勤め人が必ずいるようになり、生活時間や休日も各戸で異なるようになってしまった。第一次産業の収入が主たる生計を立てる手段でなくなるにつれ、一緒に行っていたさまざまな講も、そんなに必要なものではなくなり、講から抜けるイエも出はじめ、講は衰退の一途をたどるようになった。特に農作物の豊作を祈願するための講は、その衰退が激しい。一方、ムラの家々の冠婚葬祭などとかかわる庚申講や甲子講・念仏講などは、かろうじて今日まで続いている。

 前掲の安曇野の講の中で★印のついている講は、代参(だいさん)といって講中の代表者何人かが代表してそれを祭る神社などにお参りに行くものである。代参の費用は講員たちが積み立てていたお金を使用したり、講のための田んぼのコメを売った金を充てたりして出かけた。例えば伊勢講は昔は盛んにおこなわれ、一月二月三月あたりの農閑期に出かけて行った。代参の人数は講によって異なるが、五人から十人行く講もあった。代参人は氏神にお参りしてから講仲間に見送られて出発するなどし、代参人の家には「留守見舞い」といって菓子やそうめんなどが届けられた。代参人は伊勢神宮に参拝し、代々神楽を奉納して帰った。無事に帰ってくると氏神様にまずお参りするが、講仲間もみんな氏神様に集まって代参人を迎えた。代参人は自宅に帰ると、講仲間やお見舞いをもらった人々を招き、天照大神の掛け軸をかけて祝った。有明では藁人形を作って氏神様の森の大木に縛り付けて、無事の帰宅を祈ったものだという。また、太々神楽を奉納する費用を捻出するためのご神田(「しんでん」あるいは「かんだ」という)が、上鳥羽、真々部、踏入、重柳、細萱、光などの各ムラにあり、伊勢免などと呼ばれた。伊勢講は代々神楽を奉納するところから、伊勢太々講ともよばれた。

 『豊科町誌 別編』 民俗2 (豊科町誌編纂委員会編 平成一一年一〇月三一日 豊科町誌刊行会)によれば、一つの村だけで代参に行くのではなく、近隣周辺のいくつかのムラ(上成相組・田沢村)が集まって二十九人の代参人が編成されて出かけて行った。同書中の鳥羽家文書資料によれば、各ムラからは一人の代参人を出すムラもあれば八人もの代参人を出しているムラもある。代参人の数は各ムラの規模による違いなのかもう少し年代を追った検討が必要であるが、十八世紀中ごろ、これだけの人数が豊科成相のムラムラから送り出され、伊勢に向かった。伊勢では明見町の藤野安兵衛方に宿泊している。伊勢神宮参拝が目的であったのだから、参拝し、太太神楽を奉納し、お札をいただいたであろうことはもちろんだが、会計の記録を見ると御師への礼金だけでなく、あいの山(註3 間の山。尾部坂(おぶざか)とも。外宮と内宮の間にある古市街道に面した日本三大遊郭=江戸の吉原、京の島原とともに栄えた遊郭の一つ。妓楼七〇軒、遊女一〇〇〇人を抱えたといわれる。)という遊郭にも支払いをしている。かつて、代参の定番とされていた「お参りの後はどんちゃん騒ぎをして女と遊ぶ」が、ここでもぬかりなくされていたであろうことが推測される。

 現在のように気軽に出かけられる時代と違い、交通の便が悪かった時代、伊勢まで行くのは大変なことと考えられ、一生に一度の遠出のお参りであり、ムラの人々の暮らしの安寧や豊作を願うための代参、という信仰的な大義名分もあり日々の労働から解放された期間でもあった。

 伊勢代参同様に戸隠などへも代参で行ったので、やはりその費用は戸隠免とよばれる田の籾を売った金が充てられていた。天手力雄命を祭神とする戸隠神社を信仰する人々が構成する講を戸隠講といい、戸隠神社に参拝しやはり太々神楽を奉納し、お札をもらってきて各戸に配布する。五穀豊穣、商売繁盛、家内安全などのご利益があるとされ、安曇野市内の多くのムラムラが信仰していた。戸隠神社ではお札とともに「信州戸隠神社種兆」を配布している。その中には稲・蚕・桑の出来高予想や月々の天候占いがあるので、農家はこの種兆を参考にしてさまざまな種子の蒔きつけや植え付けをおこなったものであった。昭和四〇年代終わりから五〇年代はじめごろまでは代参でお参りに行くムラもあったが、各家に車があるようになると御師の宿坊には泊まらず、日帰りができるようになった。何日もかけて宿泊しながら代参した代参講は、公共交通の発達に伴って宿泊が一日だけになったり、更には日帰りになったりと変化して、平成に入るころからそれも行われなくなった。

 また、本宮の祭日が養蚕や稲作・麦の収穫などの忙しい時期と重なるために、代参が不可能となった御岳講のような講もあり、熊倉などのように神社の境内にある祠などにお参りし、行者に加持祈祷してもらうようになった講もある。養蚕大当たり、講中の寿福、さまざまな厄除けなどを祈祷してもらったものだという。

 そのほか、何でも願いをかなえてくれるという「いいなり地蔵」の地蔵講も下長尾の20数軒が現在も加入して行われている。かつては講のための田んぼがあったというが、田は人に譲られ、集金をして祭りを行っている。二〇一八年の祭日は三月三日で、集まったのは十二軒であった。かつてはちくわ1本と桜餅が酒の肴だったというが、現在は折り詰めを準備している。

 下長尾の地蔵講のように現在でも行われている講もあり、念仏講などは現在もあちこちで行われている。竹花の念仏講は大人も子供も混じってムラの堂内で行うが、堂には地獄絵図があり、子どものころには「いい子にしていないと閻魔様にこらしめてもらうぞ」などと言われ、怖かったものだという。信仰的な要素はもちろんだが、ムラの人々が集まる中で子どもたちの躾も行われていたし、そうした中家から子どもたちの信仰心も形成されたものと思われる。

 また、各地にみられる二十三夜塔も、かつて二十三夜さまの信仰が盛んだったことがうかがえる。三は産に通じるといわれ、産みざかりの女性たちが講を開いていたともいわれるが、二十三夜の遅い月の出を待つことによって、願いが叶うといわれた。月を経って迎えたり、月が上るところまでみんなで歩いていく「迎え待ち」なども行われ、かつては安曇野市域のほとんどの地域で行われていたであろうことが、残された石碑から推測することができる。

 

3 冠婚葬祭などとかかわる講

 前項の代参講のような講とともに、ムラごとに講が組織され、それが冠婚葬祭や日常生活と深くかかわりながら存続していた講もある。庚申は「かのえさるの日」を祭日とする中国の道教に由来する信仰と言われ、作神・福の神とされている。そのご神体は青面金剛(しょうめんこんごう)であるとも、猿田彦(さるたひこ)神であるともいわれ、庚申講の折に掛ける掛軸も、どちらかの絵柄のものが多い。また、講そのものは行われなくなったところが多くなっているが、近世末期から明治初期ごろにかけて講中で建てた「庚申講」の文字碑や青面金剛像碑を各地にみることができる。

 庚申講はその名の通り、庚申の日を祭りとするので、一年に六回ぐらい巡ってくる。講は、六・七軒から十数軒が一つの講に所属していることが多く、巡りくる祭日には、それぞれが当番の家に集まって祭りを行った。庚申講の夜は早く寝ると体から三尸の虫(頭に宿る彭(ほう)きょ 腹に宿る彭しつ 足に宿る彭きょう を三尸といい、天帝に罪過を報告する。大罪は三〇〇日、小悪は三日寿命を短くされるという)が抜けだして、天帝にその人の罪を告げるので、庚申の夜はなるべく遅くまで起きているものだ、という伝承が各地に伝えられている。また、この夜できた子どもは大泥棒になるともいわれ、この夜の夫婦の営みや結婚式を禁じているところも多い。

 庚申の夜は夕飯の頃に当番の家に集まり、掛け軸を飾ってお参りをする。般若心経などを唱えるところもあったが、近年はお参りするだけというところが多かったようである。庚申の日の夜集まるのだが、サラリーマンなどが増えるとなかなかその夜に集まることができなくなり、昭和四〇年代ごろからは土曜日の夜に集まる、というムラも増えていった。そして六回行われていたものが、一年のはじめの庚申の日であるハツド(初戸)と最後の庚申の日の仕舞戸(閉め戸)の二回だけにし、更にはそれも参加する人が次第に少なくなっておこなわなくなったというムラも多い。

 下長尾のあるムラでは、代替わりをしたりするたびに参加しない家が増え、現在は二軒だけになったが、それでもかろうじて続けている。しかし、それもいつまで続けられるか心もとない状態であるという。中曽根夫領では、お参りが終わると吸い物・酢の物・煮物・漬物・冷ややっこ・酒が出される。「話はオコウシンの晩に」といわれるように、事務的な連絡事項のほかよもやま話をして十二時ぐらいまで過ごし、最後に講員各自が線香を立て鉦を叩いてお参りして、お開きとなった。この世の献立は講ごとに異なり、豆腐・天ぷら・煮魚・酒というところ、豆腐の吸い物・鯖の煮つけ・三盛(天ぷら・よせ・みかん)・ひじきの胡桃和え・煮物・油揚げの煮つけなど葬式のようなご馳走をするところもあった。

 かつて、庚申講の仲間は葬式仲間でもあった。講員は本分家などの同姓が重ならないように組織され、隣組とも異なる所、庚申講員と隣組はまったく同じメンバーであるところなど、さまざまである。同姓だけで組織しないのは、葬式ができた時に本分家をはじめとする同姓は必ず葬家にあつまるため、さまざまな分担ができないからと言われている。

 自分の家に葬式ができると、まず庚申講の仲間に知らせ、庚申講の仲間が集まって施主と相談しながら葬式の段取りを決めたり、寺と交渉したり、必要な手続きをおこなったり、土葬の時代は穴掘りも行ってくれた。ツゲビト(遠くの親戚などに葬式の日程を知らせる)にたつのも、庚申仲間の二人であった。葬式当日は導師の接待やお参りしてくれた人の接待なども、講仲間の仕事であった。中には畳替えをしなくてはならないような場合もあり、その手続きも講仲間の仕事であった。台所を取り仕切り、お参りしてくれる人の食事の準備をするのも講仲間の女衆であり、男衆で手の空いた人が庭に竈を据えてサツマイモの天ぷらをせっせと上げたりもした。したがって、庚申講に所属していなければ、葬式も出せない状態になることは目に見えていたから、必ず講には所属していた。もちろん、葬式だけでなく庚申講の夜講中の家々が集まると、そこでムラの中のいろいろな情報交換をしたり、農作物や養蚕にかかわる情報交換をしたりもした。また、葬式などの折の相互扶助費用として庚申無尽をして積み立てをしたり、共同で使用する什器類の購入のための積み立てをしたりした。講によっても異なるが、各講には50人ぐらいの什器があり、講仲間であれば使用することができた。

 明科小芹では七軒が庚申講を組み、大正十二年にはこの講のための互助組織として貯金組合を結成した。講当日に一人三十銭を貯金することとし、この金は救済事業を目的とする旨が組合規約としてうたわれている。この金は実際には、什器を購入する費用などに充てられていたようである。そして、講仲間に葬式ができた時は、講仲間が墓地奉仕をすること、香典は他部落なみとし、香典返しはなしないこと、七日の供養には列席することなども、この時の規約として盛り込まれている。昭和六年時点では、潮へ転出した二戸をふくめ、年六回行われていると記述されているが、その後の葬式のやり方などの変遷、あるいは戸数の移動などによって変化がみられるものと思われる。(明科町史編纂会『明科町史』明科町炬育委員会内明科町史刊行会 昭和六〇年七月一日)

 葬式は、昭和30年代中ごろから土葬から火葬へと変わり、自宅での葬式も昭和40年ごろを境に次第になくなってきたので、庚申講の役割も形だけのものになってきた。葬式の変化によって庚申講の役割をなくすと同時に、講の存在意義も失わせることになった。講員の労力を借りずとも葬式ができるようになったことは、庚申講に所属している意味がなくなり、加えて家々の生活が多様化してくると、「忙しい」ことを理由に講への出席がだんだんできなくなり、やがては講をやめる、という状況を生み出した。講員が関わらずとも、葬祭業者がすべてを取り仕切ってくれる。遠くの親戚などへの連絡も、電話の普及あるいは携帯電話の普及によって、遠くまで知らせに行く必要もなくなった。庚申講の役目であったさまざまなことは講員にかわって葬祭業者がやってくれることになったのである。それぞれの家々が、講の必要性を感じなくなるのも当然のことである。一年に一度あるいは二度だけ、形だけの講を行うというところはまだ良い方で、やめてしまったという講が多い。さまざまな事務的な連絡は回覧板で行ったりするので、講員が顔を合わせる機会もほとんどなくなってしまったという講が多い。

 

左から道祖神・庚申・二十三夜塔(穂高 丸山菓子店南)

左から道祖神・庚申・二十三夜塔(穂高 丸山菓子店南)

 

 堀金の岩原では甲子(きのえね)講が庚申講の役割を果たしている。島根県の出雲から神様を請けてきたという大黒天(註 大黒天は大国に通じ、二つは同じものと考えられている。大国主神が野火で焼き殺されそうになった時、鼠の導きで難を逃れたという古事記の話しをベースに、大黒天と鼠とのかかわりを深く結びつけている。大黒天の使いとして鼠=子は北方を守護する神と考えられ、甲子講では子の刻〘午後十一時から翌日の朝一時〙まで起きているものとされ、庚申講とよく似た信仰要素をもつ)を祭る講である。かつては、甲子の日に大黒天の掛け軸をかけてお参りし、五穀豊穣や良縁・富を願った。庚申講と同じように岩原では十二軒の講員から成り立ち、甲子の日に当番の家に集まって掛軸にお参りし、お参りが済むと飲食をした。甲子の日が祭日なので、一年に六回祭日があるが、他の地域の庚申講同様、葬式の時にはなくてはならない講として存在した。しかし、葬式のやり方が変化するにしたがって、次第に講の役割も薄れ、岩原の甲子講も現在は初戸と閉戸を須砂渡食堂で行っている。

 他の地域でも講は行われていたようであるが、現在は各地に講中で建てた大黒天の石造物や、文字碑が残るのみとなっているところが多い。特に大町市域の大黒天像は大きな像容のものが特色的に見られ、安曇野では穂高地域あたりまで像容のものがみられるが、大町市域ほどの大きさのものは少ない。

穂高古厩の大黒天像

穂高古厩の大黒天像

穂高神田の大黒天像

穂高神田の大黒天像

 

 こうした冠婚葬祭と講のかかわりは深く、安曇野市域のほとんどの地域で、かつては盛んにおこなわれており、日常の付き合いの単位としても庚申講や甲子講の構成員が中心となって展開されていた。そして、現在は葬式だけでなく婚礼も様々な祝い事も「イエ」のこととして招待する範囲も狭められ、自宅で行うことも少なくなり、講の役割はほぼ終わりつつあるといっても過言ではない。しかし、一方で講は冠婚葬祭の折だけでなく、講を開くことによってその場が情報交換の場となり、ムラの家々のさまざまな情報が交換され、時には手が足りなければ互いに労力を出し合って助け合うということも行われていた。家々の状況がわかっているからこその相互扶助であった。

 

4 講が果たした役割

 今まで見てきたように、講は、信仰的な目的として地域社会の安全や五穀豊穣を願うという要素もあり、だからこそ遠い本社まで代参人を立てて参拝に行くというようなことをしていた。それは地域社会が同じような生業を展開し、同じような生活様式を共有する均質的な社会であったからこそできたことであった。同じ目的に向かって祈りをささげ地域の人々全体で神仏を祭ることが、地域社会の安寧と安定を確保できると考えていたからである。そして、講を行うことによって、地域社会の構成員である家々を結びつける機能をも兼ね備えていた。

 馬も生活の重要な道具であり、大切な家族であった。農耕のために馬を買う家も多く、馬が死ぬと石像を立てて馬の死を悼んだ。堀金では、馬頭観音講が組織され、馬頭観音を祭ってお参りした後、野天で飲食して解散する。

 それぞれの家が代替わりすることによって、講に対する意識も変化していくことが予測され、今後、講がいつまで続いていくのか、機能がどのように変化していくのかという面に関しては、継続的な観察が必要であろう。

 

明科清水の念仏供養塔

明科清水の念仏供養塔

 

御嶽講の記念碑 明科

御嶽講の記念碑 明科

かつてはあちこちで講が行われ代参も盛んだった

 

明科清水の二十三夜塔

明科清水の二十三夜塔

 

穂高本郷の色付き道祖神と二十三夜塔

穂高本郷の色付き道祖神と二十三夜塔

 

穂高有明の辻に立つ庚申塔・大黒様・道祖神・二十三夜塔

三郷某墓地内にある庚申塔

( 以上、『安曇野教育』13号 平成31年 に加筆訂正した。)

皆さまのご意見を
お聞かせください

お求めの情報が充分掲載されてましたでしょうか?
ページの構成や内容、表現は分りやすかったでしょうか?
この情報をすぐに見つけられましたか?