ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

本文

文書館紀要第1号

記事ID:0103961 更新日:2024年4月2日更新 印刷ページ表示

・刊行年月日  2020(令和2)年3月31日

・定   価  500円

・ページ数   122ページ

研究概要

文書館紀要第1号の発行に寄せて

那須野 雅好

 安曇野市文書館が扱う資料の重要性と、今後の課題を開館に携わった職員の視点から紹介しています。

 安曇野市文書館(以下「文書館」)は旧堀金公民館・図書館をリニューアルして開館した施設である。当市では平成21年度から古文書収集を、平成24年度からは歴史的公文書の収集・整理作業を行ってきた。安曇野市の施設は「公文書館」でも「古文書館」でもない。歴史的公文書と古文書などの地域資料の両方を扱う「文書館」とした。

 公文書には「保存期限」が設けられており、期限を全うした文書は廃棄されるよう条例・規約等で定められていることである。それを歴史的公文書として残すためには、選別と保存のための一定のルールづくりが必要である。

 「学校日誌」に代表される学校文書も貴重な歴史文書である。学校内の記録にとどまらず、村の行事や出来事を時系列で細かく書き残しているものも多い。

 古文書は中世から近世にかけての和紙に書かれた墨書のことで、絵図なども含む。多くは民家の納屋や土蔵に仕舞われているが、最近、古文書がネットオークションや古書店で売られているケースが相次いでいる。世代交代がもたらした価値観の変化は、地域資料の将来に影を落とす事態となっている。

 古文書は、郷土の歴史を調べる上で重要な役割を持っているため、地区公民館等に所蔵されている区の資料や、古写真の収集も進めていきたい。

松澤求策と国会開設運動

平沢 重人

逸見 大悟

 2018(平成30)年10月1日から2018(平成30)年12月28日までに開催された企画展の記録です。松澤求策の生涯を文書館所蔵松澤求策資料をもとに解説しました。

 明治になり、日本は近代国家の道を歩み始める。その歩みの中に安曇野では「自由民権運動のリーダー」と呼ばれる先人松澤求策がいた。

 求策は、1855(安政2)年6月15日、安曇郡等々力町村(現在の安曇野市等々力町)で松澤友弥、きしの長男として生まれた。青年期になると、自身の自由民権思想、国会開設運動に大きな影響を与えた武居用拙に学びながら上京する。

 明治初年、日本国内では政府への反抗活動が頻発していた。この動きは、徴兵令や地租改正、秩禄処分など、明治政府が打ち出していた新たな政策に反対する動きであったが、やがて言論の力によって国民の意思を政治に反映させていこうとする自由民権運動へと変容する。

 求策らは自由民権運動を推進する政治結社「奨匡社」を設立し、国会開設の請願書を政府に提出しようとした。受理はされなかったが、右大臣の岩倉具規による「日本全州の過半数の人民の署名が集まれば請願書を受理する」との言質を取った。以後、求策は新聞社などと連携して、国会開設への機運を高める運動に奔走する。

 その後は、国会議員になることを目指し、まずは長野県議会議員として県立中学校設立に尽力するも、代言人試験問題漏洩事件に巻き込まれて入獄を余儀なくされる。劣悪な衛生環境のもとで健康を害し、32歳の若さで獄死した。

「明治27年 小倉官林保護規約」について

青木 弥保

 小倉官林が開墾されるまでに地元の人々が作成した文書を、開墾までの経過と共に紹介しています。

 江戸時代以前の生活を支える基本的な資源は、山林原野から調達される木材や草、落ち葉などであった。当時は山林原野の資源確保を巡って絶えず争いが起こっていた。領主も山林資源を確保することを目的とし、各地に御林を設置していた。現在、リンゴ畑が広がっている南小倉地区にも松本藩の御林があり、「小倉御林」と呼ばれていた。御林の資源を使用するためには、松本藩の許可が必要であり、採集する品目や期間も細かく制限がされていた。

 明治時代になり、「御林」は国が管理する国有林となった。「小倉御林」も「小倉官林」と呼ばれ、長野大林区署管内の小倉小林区署が管轄した。明治30年代になると国有林の払い下げに向けた動きが本格化する。これ以降、小倉官林として山林資源を提供していた土地は、開墾地として耕作地となっていく。開墾地には周辺村を中心に長野県内から多くの人々が移住し、生活環境が整備されていった。開墾地は養蚕業の衰退後、リンゴ畑となった。    

 リンゴは安曇野市を代表する名産品となっている。かつて小倉官林であった土地は、形を変えて現在も人々の生活を支えている。

安曇野市文書館所蔵「キ15の設計図」と「神風」号との関連性について

財津 達弥

 飯沼飛行士記念館にも複製が展示されている「キ15の設計図」について調査結果を紹介しています。

 1937(昭和12)年4月9日、朝日新聞社航空部の操縦士・飯沼正明と機関士の塚越賢爾は、「神風」号で立川からロンドンまでを翔破し、「神風」号と命名されたキ15の機体の優秀性が世界レベルであることを証明した。「神風」号は、のちに九七式司令部偵察機として正式採用されるキ15の試作機の民間型であり、キ15は1940(昭和15)年までにI、Ii、Iii型合わせて437機生産された。

 安曇野市文書館は、2018(平成30)年にキ15の設計図の寄贈を受けた。この設計図は元々、三菱重工業株式会社名古屋航空機製作所の機体設計技師の一人であった松本市出身の上條勉の遺品である。訪欧飛行前の「神風」号を見た陸軍が、前方視界の不良、離陸距離が長いことなどの問題点を解消するよう、三菱重工へ改修試作の指示を出し、天蓋、射撃装置を改修し、愛国131号として完成した「神風」号が朝日新聞社に引き渡された。文書館所蔵の設計図だけでは「Ii号機」の謎を解明することは出来ないが、設計図の「Ii号機」との標記が、陸軍にとって、もしくは三菱にとっての何らかの2号機が存在していたことも証明となり、今後「神風」号の謎を解明する上で貴重な資料になることは間違いない。

展示記録

改元に見る市民生活

平沢 重人

 2019年4月28日から7月31日までに開催した企画展の記録です。明治以降の改元に際して、人々の生活の様子を学校日誌や広報誌から紹介しています。

 現在、西暦は国際標準として一般的な表記となっているが、日本では西暦と同じように元号が使用されてきた。5月1日からの改元にあたり、政府は公文書の年(度)の標記について西暦に統一する方針は示さなかった。それだけ私たちの生活の中に元号が位置付いているということになる。

 現在、元号は新天皇の即位に伴って改められている。天皇一代にひとつの元号が使用される「一世一元」の制は、日本では、明あるいは清といった中国の王朝の制度を取り入れて明治時代に始まった制度である。「明治天皇」「大正天皇」などの名前は、その天皇が崩御されたのちに、その時代の年号を冠しておくられた「追号」であるが、明治以前の天皇は年号に関係なく、その天皇の功績などに応じて諡(おくりな)が考えられた。

 日本の歴史を通じて、新しい年号は基本的には朝廷(明治以降は政府)により作られた。

 西暦表記が国際基準であり、文書管理のうえでも西暦に統一した方が効率的であるにもかかわらず、令和の時代でも元号表記が公文書標記とされている。国民感情や報道でも天皇即位を大きく捉えている実情がある。象徴としての天皇が今の日本の根付いていることの現れであると考える。

あづみの?あずみの?安曇野ー安曇野市の変遷を探るー

平沢 重人

 2019年8月18日から12月27日までに開催された企画展の記録です。安曇野市域の合併に至るまでの歩みを所蔵公文書から紹介しています。

 2005(平成17)年10月1日、安曇野市は5町村の対等合併により誕生した。

 明治時代の前半、筑摩県や政府の政策により町村合併が急速に進む。それまでまとまりのなかった村々が合併する中で、新しい村の名前を創り出す必要が生じた。戦後になり、1953(昭和28)年10月1日施行の町村合併促進法は、政府が3年間のうちに全国の町村を3分の1にしようとするものである。南安曇郡内の各町村では、南安曇地方事務所長から1954(昭和29)年5月29日付で出された「町村合併促進に関する啓発宣伝についての通知」(温村役場資料)により広報車出勤計画が示され、広報車により合併の促進が呼びかけられていた。

 1995(平成7)年の合併特例法により、国は当時全国3234の市町村を昭和の大合併と同じように3分の1程度にしたいと考えていた。安曇野市域では、1998(平成10)年の第46回南安曇郡議会議員大会において合併協議が始まり、2005(平成17)年2月23日に合併協定書の調印となる。新市の名称として「安曇野市」を適当とする声が58.8%と大半を占めた。地方自治体の合併は行財政基盤の強化と安定を図る目的で進められ、成果を得てきた。その中でも、地名や史蹟等の受け継がれてきた地域の歴史や文化を大切にしていきたいという思いは強い。

講演記録

近現代における天皇制とはー明治維新から令和に至るまでー

瀬畑 源

 2019年5月6日に開催した講演会の記録です。瀬畑 源さん(現 龍谷大学准教授)から近現代の天皇制のあり方についてお話しいただきました。

 1853(嘉永6)年、ペリーが黒船で来航してから、近代化を進める動きが本格化する。幕府は既存の体制を残した近代化を考えるが、討幕派は天皇中心の中央集権国家を作って、上から近代化を強制しようと考えていた。大政奉還から版籍奉還、廃藩置県を経て新政府を作ることに成功し、近代化を進めていった。

 明治政府は最初、太政官制度を整備するが、最終的に大日本帝国憲法の下で政治制度を確立していく。帝国憲法下での天皇は、全ての権力と統帥権を持っているとする天皇主権説と、天皇も憲法を守り政策を承認する立場であるという天皇機関説が混在していた。実際の政治の調整は当初元老が行っていたが、元老たちが年老いて亡くなった後は政党が行うようになった。1920年代になると政党の腐敗が始まり立場が弱くなってしまう。そうなると政治の調整を天皇が行わなくてはならなくなる。その結果、重要国策を決めるという御前会議の形式がとられるようになった。

 戦後、天皇の政治権力は全て剥奪される。また、皇室典範が法定化された。日本国憲法では天皇は国民の総合の象徴であると位置づけられた。昭和天皇は新たな立場を理解しながらも政治家に内奏に来ることを求めていたとされる。一方で各地を訪問し国民と会う機会を作ろうとした人だった。平成の天皇(上皇)は「象徴」と「伝統」の間でどうバランスを取っていくか考えた人であった。平成の天皇が行ってきたことは今後改めて検証する必要があると思う。

安曇野文化人の系譜ーあなたが案内人ー

赤羽 康男

 2019年10月20日に開催した講演会の記録です。『臼井吉見の「安曇野」を歩く』の著者・赤羽康男さん(市民タイムス編集委員)が「安曇野」の魅力を紹介しています。 

 津軽といえば太宰治の長編『津軽』であるように、安曇野といえば臼井吉見の『安曇野』である。

 臼井吉見は戦時中、軍に入ったが生き延びて物書きになった。物書きになった使命として、部下たちへの鎮魂の想いを込めて、日本の近代がどうしてこんな末路をたどってしまったのか、その栄光と悔恨の歴史を自分の戦争体験を含めて解き明かしたいという壮大なテーマの下に『安曇野』は書かれた。

 『安曇野』の登場人物の一人である荻原碌山は、「女」の像を作った。その作品は、碌山の人生そのものであり、内に苦しみや悲しみを秘めながら作品としては、力強く美しい。それが碌山の彫刻の特徴であり、碌山の人生そのものである。

 そんな碌山を生み、臼井吉見を育んだその源泉は安曇野の山河だと思われる。安曇野の山河、景観の中から荻原碌山や臼井吉見が生まれ、芸術的な感性や文学的な情感も育まれたと言える。文化人たちの源流を辿っていくと水源があり、その水源から鮮烈な水が流れだして水脈となり、その水源を絶やすことなく次の人たちに伝えていくことが一番求められているであろう。

資料目録

 公文書:旧5町村議会関係文書

皆さまのご意見を
お聞かせください

お求めの情報が充分掲載されてましたでしょうか?
ページの構成や内容、表現は分りやすかったでしょうか?
この情報をすぐに見つけられましたか?