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安曇野市では、宝シリーズ第1弾『明科の宝』、第2弾『穂高の宝』、第3弾『豊科の宝』に続き、令和5年3月に第4弾『三郷の宝』を刊行しました。
『三郷の宝』に関係する資料のなかで、文書館に収蔵されている資料を中心に紹介しながら、三郷の歴史や文化を再確認します。
期間 令和6年1月21日日曜日から3月31日日曜日まで
会場 安曇野市文書館1階閲覧コーナー
松岡 弘
明治23年(1890)12月19日温村(現三郷温)下長尾に生まれ、教育者として生涯を生きました。
植原 悦二郎
明治10年(1877)5月15日、明盛村(現三郷明盛)中萱に生まれました。アメリカやイギリスで政治学、哲学を学び、憲法学者、政治家として生きました。
務台 理作
明治23年(1890)温村(現三郷温)野沢に生まれ、教育者松岡弘とは同年でした。西田幾多郎に哲学を学び、戦後に命と平和の大切さについて唱えました。
←『三郷の宝』展示の様子
昭和29年(1954)6月1日、温村・明盛村・小倉村が合併し、「三郷村」が誕生しました。
「三郷村」という名にした理由は、「三郷村の三は、温・明盛・小倉の区域を意味し、郷は村に通じる。この字句は平和で美しく温かみがあり発展性に富んでいる。」ためです。
←三郷村の公文書
心地よい春を感じる頃、果樹の開花は短い期間に順次始まります。
梨、桃、林檎、葡萄・・・三郷の大地は生命の息吹が一気に訪れます。
黒沢川扇状地と内陸性気候の特色を生かしたリンゴ栽培。
「御林」から開墾し、養蚕の盛んな時期には桑畑を経て果樹栽培に転じてきました。大地の恵みを生かした「リンゴCalendar」です。リンゴづくりの作業と努力を紹介します。専門性の高い作業技術は伝承が難しいと言われています。
←三郷村の誕生・りんごCalendar
播隆上人は越中(現富山)生まれの僧侶です。天明の大飢饉を乗り越え、人々の命を守ろうと必死に生きていた時代でした。
播隆上人は笠ヶ岳再興をきっかけに槍ヶ岳を目指しました。笠ヶ岳への登山道を整備し、だれもが登拝できる山にすると、はるか東にそびえる「槍ヶ岳」の開山を志し松本平にやってきました。播隆上人の槍ヶ岳開山は小倉村(現三郷小倉)鷹巣見回りの又重の案内なくしては成し得なかったでしょう。
江戸時代後期、岩岡村の庄屋伴次郎を中心に、「海の産物を松本平へ、松本平の産物を飛騨へ」と飛騨と松本を結ぶ最短の「交易道」ができました。松本ー小倉ー上高地ー中尾ー高山の公道は26年間使われましたが、厳しい自然環境に維持できず閉鎖されました。短命ではありましたが、海と山をつなぐ「飛州新道」という夢の道が通じていた時代があったのです。
三郷室町にある「チンクラ屋敷遺跡」から大正10年(1921)に出土した「四頭石斧」は、古くから存在が知られています。
何に使っていたものか?・・・用途についても「武器説、農具説、狩猟具説、呪術石器説」などが挙げられていますが、現在まで、その用途について明らかにされていません。
←四頭石斧と縄文土器
三郷を真上から見たときに、まず目に飛び込むのは黒沢川扇状地です。黒沢川扇状地はローム(火山灰か風化した赤土)で覆われており、傾斜した水はけのよい土地となっています。
住吉神社は歴史のある神社で、「住吉神社の社叢(しゃそう)」「住吉神社御神木ヒノキ」は安曇野市の天然記念物に指定されています。黒沢川の氾濫や土砂災害を防ぐための砂防林を兼ねた鎮守の森を育て、神社を祀って安全を祈願した先人たちの思いが感じられます。
黒沢山(2051メートル)から流れ下る北黒沢と南黒沢の交流点が「洞合(どあい)」です。黒沢洞合自然公園を含む洞合周辺は、安曇野市内でも数少ない里山環境を残す場所のひとつで、多くの生きものたちが利用しています。