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令和3年度前期企画展 「多元主義社会を生きるー自由主義擁護の旗手清澤洌の思想を通してー」

記事ID:0076332 更新日:2021年4月7日更新 印刷ページ表示

企画展「多元主義社会を生きるー自由主義擁護の旗手 清澤洌ー

 期 間  令和3年5月9日日曜日から令和3年8月31日火曜日まで

 会 場  安曇野市文書館閲覧コーナー

展示の様子←展示の様子

 戦前・戦中に活躍したジャーナリスト・清澤洌は、現在の安曇野市穂高北穂高・青木花見に生まれました。

少年時代に穂高の研成義塾で井口喜源治の教えを受けた後、アメリカに渡って働きながら苦学を続け、帰国後は新聞記者や外交評論家として活動しました。

 青年期にアメリカで見聞を広めてきた清澤は、培ってきた自由主義と平和主義を掲げ、冷静な目で世界情勢を分析した多数の評論や書籍を執筆するとともに講演活動も精力的に行いました。

普選運動や大正デモクラシーの高まりが徐々に国家主義に圧倒されていく時代を、自らの確固たる信念に従って生きた清澤について、彼が発信した書籍を紹介するとともに、晩年自らの戦争体験を『戦争日記(暗黒日記)』として執筆するに至るまでの生涯を紹介します。

 また、グローバリズムとナショナリズムがしのぎを削りあっている現代における私たちのあり方を、清澤冽の生き方を通して考えます。

安曇野で過ごした少年時代

  清澤洌は、1890年(明治23年)、南安曇郡北穂高村青木花見で、父・市彌と母・たけの三男として生まれました。

1903年(明治36年)に北穂高小学校高等科を卒業すると、1898年(明治31年)に井口喜源治によって創立された私塾である研成義塾に入学します。

井口はキリスト教に基づいた人格主義教育を目指し、「『偉い人』ではなく『善き人』になれ」と説きました。

キリスト教の思想に、儒教等の日本古来の教えを組み込んだ教育を施していたと言われています。

ひとつの価値観にこだわり、他の価値観を排除するのではなく、他の価値観にも寛容な態度で臨む多元主義の立場をとっていたのです。

このことが清澤の人格形成に大きな影響を与えました。

アルバム←アルバム

アメリカで目にした排日運動

 1906年(明治39年)12月、清澤はアメリカを目指します。

しかしアメリカ国内では、日本人移民排斥運動が高まりを見せていました。

その背景には、人種的な偏見や、日本人の安価な労働力で仕事が奪われるといった要因がありました。

勉学を目的に渡米した清澤は、働きながら苦学を続けます。

やがて日本語新聞社「北米時事」等の記者となり、アメリカの内情を観察しました。

 清澤自身も排日運動を目の当たりにしたようですが、アメリカに敵対心を抱くことはありませんでした。

それは、過激化する排日運動の中にあって、時のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトがカリフォルニア議会に対して発した、「アメリカという国は他民族国家だ。その中での排日は問題だ。」という言葉も関係していると考えられます。

 のちに著した『米国の研究』では、日米が親善関係を築くことを強く主張しています。

ジャーナリストとしての活動

 帰国後、1920年(大正9年)、中外商業新報社(後の日本経済新聞社)の記者となります。

清澤の手腕は多くの人々の注目を集め、得意の外交問題や政局だけでなく、教育や文化など様々な分野でも執筆を行いました。

 さらに著書も次々と世に送り出していきます。

処女出版『米国の研究』では、アメリカの政治・経済・外交等様々な分野について述べています。

また『モダンガール』では女性の社会的経済的な自立の必要性を、自身がアメリカにいた経験から「女性に男性との差別のない職場を提供することこそが、必要不可欠の課題であって、労働現場に携わる女性にこそ、モダンガールの本質がある」と説きました。

1927年(昭和2年)、朝日新聞社の計画部次長に就任しますが、1929年(昭和4年)に刊行した『自由日本を漁る』に収めた「甘粕と大杉の対話」が国体(国家の掲げる政治の基本的な原則)を冒涜するものとして朝日新聞社が右翼から追及の宣言攻撃を受けます。

清澤は会社に迷惑が及ぶことを避けるため、朝日新聞社を退職し、フリージャーナリストとしての道を歩むことになりました。

 太平洋戦争が始まると、講演活動を精力的に行っていた清澤に対して「国内の情勢を知らない奴だ」「外国から買収させているのだ」の声が聞こえるようになります。

清澤は自身のことを愛国者であると語っています。

清澤洌著書←清澤洌著書

外交評論家として

 清澤はフリージャーナリストとなってからも、海軍軍縮会議が行われるロンドンに赴く等、精力的に取材活動を行います。

また、アメリカ各地で講演を行い、自らのアメリカ研究もさらに深めていきました。

 このころ中国大陸では、1931年(昭和6年)の満州事変を皮切りに、日本軍の大陸侵攻が本格化していました。

 これに対してアメリカは、中国での権益を脅かされることへの懸念を強めていました。

清澤は、日本の世論が対米戦争へと傾くことを恐れ、『アメリカは日本と戦はず』を著し、アメリカが日本との軍事的な対決を望んでいないことを世に訴えました。

さらに『非常日本への直言』を著し、満州事変と満州国建国、その後の国際連盟からにの脱退により、日本が戦争への道を歩み始めている状況に警報を鳴らします。

『激動期に生く』の中では、良心の自由とその発表こそが国家や社会の健全な発展の基礎であると述べ、、自らの信念として国際関係の再建を説きました。

 1933年(昭和8年)、松岡洋右が国際連盟脱退を宣言すると、平和外交を期待していた清澤は大きな衝撃を受けます。

『松岡全権に与ふ』を執筆し、世論はあなたを凱旋将軍のように迎えるだろうが、あなたには外交力がない、と鋭く責めています。

さらに、今急ぐべきはアメリカとの平和確保であるとし、ソ連との不可侵条約の締結、中国との現状改善を訴えています。

清澤洌の愛蔵品←清澤洌の愛蔵品

戦争日記(暗黒日記)の執筆ー大戦を記録するー

 清澤は、多くの著作を通じて対米戦争への警鐘を鳴らし、アメリカとの協調を主張してきました。

しかし1941年(昭和16年)12月、日本は対米戦争に踏み切りました。

このとき清澤は異常なほど怒り、悲しんだといいます。

 開戦から1年が経った1942年(昭和17年)12月、清澤は『戦争日記』と題する日記を書き始めます。

この日記には、その時々の政治や外交、戦争政策等を記録し、自らの批判や考えも書き込みました。

戦争が終結した後、「この戦争が持つ意味を検証する資料とする目的で書く」と本人は日記に記しています。

なかでも、1945年(昭和20年)3月の頃には、東京大空襲後の都心部の惨状を詳しく記録しており、戦時下の状況を知る上でも大変貴重な資料となっています。

 この日記は清澤の死後、1958年(昭和29年)に『暗黒日記』(東洋経済新報社)として刊行されました。

戦争日記(暗黒日記)←戦争日記(暗黒日記)

おわりに

 終戦間際の1945年(昭和20年)5月21日、清澤は急性肺炎のため、55歳でこの世を去ります。

戦後の平和な日本を目にすることはありませんでしたが、全世界を巻き込む戦争に立ち向かった一人として、日本近代史の中で輝きを放った生涯でした。

 世界恐慌が大きな画期となり、日本やドイツ等の国々が軍国主義、ファシズムへと大きく舵を切り出しました。

このころから、清澤は膨大な量の論説や多数の著作を世に送り出し、戦争回避と平和主義を訴え続けていました。

これは、戦争が多大な犠牲を払うものであるばかりか、国民に還元される利益が少ないと冷静に分析していたからにほかなりません。

 

 清澤の優れた洞察力は、若いころから日本を飛び出し、海外で見聞を広め、外から祖国を観察した経験によって培われたものでした。

 しかし、さらにその根源をたどれば、安曇野で過ごした少年時代に行き着くのではないでしょうか。

一つの価値観に捉われず、複数の視点から物事をみる姿勢は、少年のころに培った研成義塾の教えに求められるのです。

清澤洌の肖像画←清澤洌の肖像画

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