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2012(平成24)年12月19日、安曇野市は「安曇野市平和都市宣言」を制定しました。今年は、制定10周年であると同時に、特攻出撃を控えた知覧基地で「国を愛しても、操縦桿を採る器械となってはいけない」と記した上原良司生誕100年の年でもあります。
ロシアによるウクライナ侵攻を目の当たりにした私たちは、平和についてどう考えていけばよいのかを上原良司に関わる記録や平和宣言に込められた思いを通して考える機会とします。
期 間 令和4年9月11日日曜日から12月28日水曜日まで
会 場 安曇野市文書館閲覧コーナー
主 催 安曇野市教育委員会
担 当 安曇野市教育委員会教育部文化課博物館担当(安曇野市文書館)
←後期企画展展示の様子
安曇野市は、平成24(2012)年12月19日「安曇野市平和都市宣言」を制定しました。今年は、宣言制定10周年であると同時に、特攻出撃を控えた鹿児島県知覧基地で「国を愛しても、操縦捍を採る器械となってはいけない」と記した上原良司生誕100年の年でもあります。ロシアによるウクライナ侵攻を目の当たりにしている私たちは、平和を維持することの困難さを痛感しています。上原良司が記した昭和18(1943)年からの日誌や関係資料、宣言制定に向けた検討資料を通して平和について考えたいと思います。
有明村(現安曇野市穂高有明)の「有明医院」を引き継いだ良司の父・寅太郎は医師として、村助役として活躍しました。その上原家の三男として生まれた良司が注目を浴びるきっかけとなったのは、上原の「遺書」が掲載された『きけ わだつみのこえ』(岩波文庫)です。
←上原三兄弟塑像
良司のひとつ上の兄、海軍軍医龍男は、良司が出陣壮行会に参加した翌日、南太平洋で潜水艦乗船中に戦死しています。それ以降、良司の日記には「龍兄ちゃんの仇を討つ」の文言が多く登場します。良司は、日記以外に手帳や愛読書、ノートなどに多くの手記を残しています。「戦陣手帳」「修養反省録」等、3冊に記された良司の言葉から学徒にとって太平洋はどうであったのかを考えてみます。
←上原良司の手記
昭和50年代、米ソを中心に軍備拡大と進む国際情勢の中で、唯一の被爆国である日本は、各自治体において「非核・核兵器廃絶」を訴える平和宣言が制定されていきました。安曇野市の旧5町村においても取組は同様でした。
このメッセージは、1987年12月8日の米ソ首脳による核兵器縮小合意となり、1989年11月のベルリンの壁崩壊、12月のマルタ会議により東西冷戦の集結へとつながっていきます。
←「平和都市宣言」関係資料
「安曇野市平和都市宣言」制定後の取材に対して、市長は「宣言とともに、平和のつどいなどの具体的な行動を重ねたい」と語っています。安曇野市では、平成24年度から3点の取組を進めてきました。
・2012(平成24)年から 広島平和記念式典への中学生の参加
・2012(平成24)年から 平和のつどい・戦没者追悼式への広島平和記念式典に参加した中学生の参加
・2016(平成28)年12月21日 2分の1成人記念 安曇野市人権・平和特別授業〜Kizuki〜への小学校4年生の参加
*下記の講演会・講座は終了しました。
文書館で配布資料や記録DVDをご覧いただけます。
上原家では、太平洋戦争で三兄弟を亡くしています。彼らが記した文章や残された写真等の資料を元に、慶應義塾福澤研究センター准教授の都倉武之氏をお招きし、ご講演いただきました。
日 時 令和4年10月23日日曜日 午後1時30分から午後3時まで
講 師 都倉 武之 氏(慶應義塾福澤研究センター准教授)
*文書館に記録DVDがあります。
*『安曇野市文書館紀要第4号』に講演記録を掲載しています。
ロシアによるウクライナ侵攻を目の当たりにしている私たちは、平和は当たり前のものではないということを実感しています。「安曇野市平和都市宣言」制定10周年に際し、この宣言文に込められた思いを含め、平和を継続する事の意味についてを中学生、高校生を交えて考えます。
日 時 令和4年11月20日日曜日 13時30分から15時30分まで
テ ー マ 「今、安曇野から平和を思う」
パネリスト ・大串 潤児 氏(信州大学人文学部教授)
・矢野 司 氏(安曇野市教育委員会指導主事)
・長野県豊科高校2年生
・穂高西中学校3年生
*コーディネーター:平沢重人(文書館長)
内 容 1.基調講演(50分) 13時30分から14時20分まで
・講師:大串 潤児 氏
・演題「相手を理解すること ー上原良司の思想を手がかりにー」
2.パネルディスカッション(60分) 14時30分から15時30分まで
*『安曇野市文書館紀要第4号』展示記録「安曇野から平和を思う〜上原良司生誕100年〜」に基調講演及びパネルディスカッションの記録を掲載しています。