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安曇野を流れる堰

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

“安曇野の文化遺産”大地を潤す堰(農業用水路)

拾ケ堰(じっかせぎ)

拾ヶ堰と自転車ひろば

 安曇野の堰の中でも拾ケ堰は最大規模で、江戸時代後期の文化13年(1816)に開削された。幹線水路の延長は15キロメートル、ほぼ標高570メートルの等高線に沿って安曇野の中央部を貫いて流れ、高低差は5メートルほどである。
 開削は、10カ村の農村の指導者によって立案され、工事は延べ6万人以上の農民が参加し、約3カ月の短期間に工事を終えるという、驚異的な事業だった。現在は、約1,000ヘクタールが灌漑(かんがい)され、安曇野の今日を築いた文化遺産である。また、農林水産省の「疎水百選」にも選ばれている。
 じてんしゃ広場
拾ケ堰沿いには自転車専用道が整備されている。
【問い合わせ】
安曇野市観光協会(電話0263-82-3133)

新田堰(しんでんせぎ)

新田堰(しんでんせぎ)

豊科熊倉で梓川から取水し、成相、新田地区を通り、万水川へ流れる。開削年は不詳であるが、矢原堰開削から25年後の1679年に水路改修が行われた。この改修当時は、平安時代からある真鳥羽堰の流末や余り水を利用していたが、ほとんど水は得られなかったため、新しい取水口を求めて梓川まで等高線沿いに横堰を築いた。ところが、梓川の水も上流で取られてしまったことから、そのまま梓川をせき止めて掘り進み、隣の奈良井川の水を引いたといわれている。1937年、 勘左衛門堰の改良工事の時契約をして同堰から毎秒7立方米の水量を新田堰の水門へ引くことになる。(東沢線:1200m)幹線水路の延長は約6.6キロメートルで、灌漑面積は、約210ヘクタール、新田堰土地改良区が管理している。

矢原堰(やばらせぎ)

矢原堰(やばらせぎ)

矢原堰の開削は、江戸初期の1654年。矢原村の庄屋・臼井弥三郎の功績と伝えられ、今も水路の取り入れ口には頌徳碑(しょうとくひ)が建っている。犀川(高家熊倉)から取水、北流し、穂高神社付近で欠けの川に流れる。主に矢原・白金・等々力・穂高町・等々力町の水田地域を灌漑している。幹線水路の延長は、約8.3キロメートルで、灌漑面積は、約440ヘクタール。安曇野を流れる横堰としては最初に開削され、その後の江戸時代の堰の開削のさきがけとなった。1999年6月、万水川に架かる眼鏡橋(通水路)が豪雨で流され、現在はコンクリート橋となっている。矢原堰土地改良区が管理している。

勘左衛門堰(かんざえもんせぎ)

勘左衛門堰(かんざえもんせぎ)

勘左衛門堰は、江戸時代の1685年、成相組代官だった二木勘左衛門が奈良井川小麦淵(松本市島立)から取水し、梓川を横掘り(現在はサイフォンでくぐる)して開削した。開削当時は、成相新堰と呼ばれていたが、拾ケ堰が開削されてからは勘左衛門堰と呼ばれるようになった。幹線水路の延長は約10キロメートル、灌漑面積は約329ヘクタールで、扇状地の中央近く、万水川へ至る。勘左衛門堰土地改良区が管理している。

新堀堰(堀廻堰)(しんぼりせぎ・ほりまわしせぎ)

新堀堰(掘廻堰)(しんぼりせぎ・ほりまわしせぎ)

1861年、丸山伝右衛門らが先頭に立ち、延べ4万4千人の人足を用いて約1カ月を費やして掘り立て通水した。三郷地域の住吉神社付近で温堰(ぬるせぎ)尻を取り入れて、標高600mの等高線に沿って流れ、堀金の田多井で堀廻し、烏川扇状地の扇央を横断して拾ヶ堰に流入する。

五ケ用水(ごかようすい)

五ケ用水(ごかようすい)

江戸時代の1832年、牛越茂左衛門ら中心となり、池田村の村々にも協力を求め、明科の押野から小泉まで開削した水路。明科押野の内川から取水し、明科小泉で犀川に流れる。押野、塩川原、荻原、中村、小泉の各地区の水田を灌漑し、幹線の総延長は、約12キロメートル、灌漑面積は約100ヘクタール。

※このページには、江戸時代に開削された主な堰を掲載。
このほかにも安曇野には数々の堰が流れているが、梓川左岸では、最も古い立田堰(りゅうだせぎ)をはじめ、横沢堰、温堰(ぬるせぎ)、庄野堰、長尾堰、小田多井堰、住吉堰、中萱堰、飯田堰、熊倉用水、呑堰(のみせぎ)、真鳥羽堰 、北堰用水、富田堰、穂高沢 、矢原沢、光用水など多くの堰・用水が安曇野の大地を潤している。