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これほど海から遠い安曇野で
お祭りの山車(だし)が
船の形をしているのは、ナゼ…?
「穂高神社御船祭り」の名で親しまれる御船神事例大祭
穂高神社を訪れたことはありますか?
荘厳な空気に満ちた広い境内と、安曇野の不思議を映す祭り。長野県では諏訪大社、生島足島(いくしまたるしま)神社と合わせて信濃三社と呼ばれるほど、深い信仰を集める歴史ある神社です。
穂高神社で1年のうちに行われる最大の祭りは、毎年9月27日の「御船祭り」です。その名のとおり、高さ6メートルもの大きな山車(だし)は、船の形をしています。これに綱をつけて、大勢で引いてまわるのです。
“日本の屋根”と称される北アルプス(飛騨山脈)の峰々をバックに、田園地帯や住宅の間を、大きなお船が進む風景は、安曇野の秋の風物詩ともいえるでしょう。
上:豪快にぶつかりあう大人船 下:お船の骨組み
穂高神社の御船祭りには、大小5隻のお船が登場します。2隻は高さ6メートル長さ12メートルにもなる「大人船」と呼ばれるお船で、もう3隻は大人船より一回り小さな「子供船」と呼ばれるお船です。
お船はそれぞれ、歴史上の名場面や人物を表現した人形などで飾り付けられていています。一見すると頑丈な船のイメージと違った華やかな外見です。ところが船体の中心部分は、がっしりと太い木で組まれています。ここには笛や太鼓、鐘などのお囃子(はやし)の青年たちが乗ります。
5隻のお船は、各町内を回って穂高神社に集まります。祭りのクライマックスには、神社の境内で大人船2隻が、その船体を豪快にぶつけ合います。
船と船が荒々しくぶつかり合っても、山車の内部では揺れに耐えながら、お囃子の青年たちが演奏を続けます。まるで海の戦いに挑む、武者の血をかきたてるような祭りです。
穂高神社だけではありません。安曇野に古くから伝わる祭りの山車は、船の形をしたものが多く、なかには海戦の激しさを物語るように、激しく山車を揺すって、最後にはひっくり返してしまう豪快な祭りが残っている地域もあります。
町を練り歩くお船
ところで、海からこれほど離れている神社で、いったいどうして船の形をした山車が伝わっているのでしょう?
なにしろ長野県はどこにも海に面していない山国。そして安曇野は、3000m級の山々が連なる北アルプスの裾野に広がる地。海とは縁遠い地なのですから。
田畑のなか曳行するお船。畑の緑が波のよう。
実は「御船祭り」は、安曇野に暮らす人々の祖先である安曇族が、海から内陸までを船で自在に行き来していた海人(あま)族であったという証といわれています。
職業で言うと、船で物品を輸送する貿易商人。漁師でも農民でもなく、普段は船の上で暮らし、いざ戦いとなると海軍となる海の民が、安曇野の祖先であることは、意外ですね。
安曇族は北九州や朝鮮半島を本拠地とする海人族と言われています。朝鮮半島や中国を行き来し、紀元6世紀ごろに安曇野へ移住、船によって大陸の文化も運んでいたと考えられています。
穂高神社には「穂高見命」が祭神として祀られ、そしてその父である海人族の神「綿津見命」(わたつみのみこと)も祀られています。これは、安曇野が海と深くかかわっていたことを物語っているのです。
阿曇比羅夫像(穂高神社)
大和朝廷での海人族は、海部(あま、あまべ、かいふ)などと呼ばれて海岸の業務を取り締まる任務を果たしていました。また、朝廷に海産物を献納していました。
穂高神社の若宮には「阿曇比羅夫」(あずみひらふ)という人物が祀られています。661年、大和朝廷が唐・新羅(しらき)の連合軍と戦った際、阿曇比羅夫が大将として朝鮮に渡り、戦ったといいます。
今の安曇野には田園風景が広がり、人々が昔から山と土の恵みの中に脈々と生活を営んできたと考えるのが自然でしょう。しかし、はるか遠い昔に思いを広げてみると、私たちの祖先が海からやってきたであろうという不思議に、わくわく想像が膨らみますね。
安曇野で最も大きなお船の山車は、8月最終の土曜日・日曜日、三郷中萱地区の熊野神社で見ることができます。
また、明科潮地区にある潮神明宮では5月4日から5日、船に800本ものローソクを灯す柴舟が幻想的です。
それぞれの船の上には「戦国物語」や「民話」など、よく知られている歴史物語の代表的なワンシーンが木偶(でく)と呼ばれる創作人形により立体的に描かれています。毎年テーマを変えて作られる“人形絵巻”は、リアルで迫力があると評判です。地域の人々だけでなく、安曇野を訪れる観光客の目も楽しませてくれます。