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安曇野を南方向から見た絵地図を中心に、泉小太郎と八面大王のタペストリーが皆さまをお迎えします。
タペストリーの下には、大口沢で発掘された生痕化石が飾られています。動物が這った跡や、エビ・カニ等の仲間の甲殻類の巣穴等をはっきり見ることができます。今から1300万年前の安曇野が海の底だった時代をあなたの目で確認してみてください。
私たちの生活にリズムとメリハリをつけてくれる「まつり」。常設展示室の左側ドアを開けると、昭和30年代の農家の生活や農耕の様子が目に入ると同時に、どこからか祭囃子が聞こえてきます。
目の前の民家のお勝手に上がってみてください。昭和30年代、飯台を使って食事をしていた当時を再現してみました。飯台の引き出しには、一人一人の食器が入っています。箱膳の名残とみることができるでしょう。引き出しの中には、小さなパネルが入っているので、それもご覧ください。竃と流し・水瓶もお見逃しなく。
お勝手の縁側に腰かけてみれば、目の先には我が家の田んぼが広がっています。日々、稲の育ち具合をみながら、水の管理や田の草取り等をしました。
ここは我が家の私的な空間。漉し井戸があり、井戸から五左衛門ぶろに水を汲み入れて風呂を立てます。着替えた下着等が物干しにかかっています。そして奥には安曇野に多く見られる屋敷林が広がります。屋敷林の木を枝打ちして焚き物にしたり、落ち葉葉焚き付けにしたり、堆肥と積んで肥しにしたりしたそうです。
昭和30年代の農家には、ご先祖をまつる仏壇と氏神様等を祭る神棚があって、毎朝お水やお茶・ご飯をお供えし、家族の無事を祈ってお参りしました。
安曇野では月遅れの8月を盆月といい、8月13日から16日を盆の期間と考えています。この1年間に亡くなった人がいる家では、とくに丁寧に御霊をまつり、昔は栗尾の満願寺まで仏迎えに行ったといいます。家々では、仏様を迎えるために盆棚を作り、盆の御馳走も作って盆棚にお供えします。
盆と正月は一年の内で大切な祭りの日です。安曇野では、正月様(年神様)をまつるために12月の半ばごろから準備をはじめ、大みそかの夜は一年で一番盛大な御馳走をして年神様に供え、自分たちもいただいて共に時間を過ごします。この夜まつるのは、神様だけではなくご先祖様にも「御霊の飯」を供えておまつりします。この一年亡くなった人がいる家では「新御霊」の見舞いを受け、正月はしません。
1月13・14・15日は、小正月と呼ばれていました。大正月と同じように御馳走をして、神様にお供えします。14日には繭玉や稲の花等を米粉や餅で作って、神棚や床の間等に飾ります。繭や稲がこんなふうに豊作であってほしいと願っての祭りです。そして、15日には正月飾りを全部外して、三九郎を作って燃やし、年神様を送ります。
2月初午の頃、各地で繭の豊蚕を願って蚕神様の祭りが行われます。安曇野は第二次世界大戦前、良い蚕種の一大産地として名を馳せました。遺蚕にならないよう、蚕神の祭りもきちんと行われていました。しかし、戦争中桑畑が食糧生産のための畑に変わり、養蚕も下火になってしまいました。
4月半ばごろになると、苗代を作る準備が始まります。苗代を作ることを苗代をしめるといい、種をまいて苗代しめが終わると、田の水口にケーカキボーを立てその上に田の神様が座っているといわれていたことからヤコメを供えました。ケーカキボーは小正月の小豆粥を作るときに使った箸です。
稲の収穫が終わると(旧暦10月10日夜)、田の神である案山子を家にあげて牡丹餅等を作ってお供えをします。案山子は牡丹餅をカエルに背負わせて山へ帰っていくといわれています。また、翌年の春里に下りてきて、田んぼを見守ってくれるのです。
七夕は星の祭りだけではなく、いろいろな要素を持っています。新しく収穫された小麦粉を使って作った饅頭や小豆ホウトウを七夕に供える畑作物の収穫儀礼等があります。
七夕にいろいろなものを洗うと良く落ちるとか、水浴びをすると一年間の眠気を流す等ともいわれていますが、盆を迎える禊と考える説もあります。七日盆などといい、お墓の掃除をするところが多く見られます。
家々の祭りスペースから6枚のバナーをくぐると、そこはムラのお祭り会場があります。安曇野の代表的なオフネ祭りが繰り広げられています。左壁面には川・山の間にあるムラのオフネ、そして正面には穂高神社のオフネや一日市場の御柱が展示されています。神を迎え、神とともに過ごし、神を送る、祭りのひと時に浸ってみてはいかがでしょうか。
一口にオフネといっても、ムラによってその作り方等は異なります。安曇野のオフネを比べて、見て、楽しんでください。
下の画像は住吉神社から提供いただいたオフネの幕です。実際はもっと大きいのですが、これでも十分迫力を楽しんでいただけるかと思います。オフネと背比べしてみてください。
また、動画で穂高神社のオフネ祭りの様子が見ることができます。
御柱というと諏訪大社の御柱を思い浮かべる方が多いかと思われますが、安曇野では御柱の形態もまつり方も異なります。
安曇野の豊科・穂高・三郷・堀金地区と松本市の内田地区等に見られるものです。ここでは一日市場東村の御柱が見られます。男性と女性を象徴した作り物で、豊作を祈る祭りです。
ムラの祭りにもいろいろありますが、庚申講の構成の仕方もいろいろあります。この講に属する家々が、葬式のお手伝いをする基本単位となっていました。穴掘り、御馳走作り、参列者の接待等がありました。この講がなければ葬式ができないといわれていましたが、自宅葬がなくなり、講も自然に衰退して名ばかりになっているムラが多くなりました。
風は風邪でもあり、その他のあらゆる病気も含まれます。藁人形にすべての悪いものを封じ込め、村境の崖まで送り出しました。
お祭りといえば御馳走を食べられる日でもありました。下の画像は昭和30年代のお祭りの日の御馳走を再現したものです。いご(えご)は、地域によって食べる地域、食べない地域があります。鯉は祭りの日だけでなく、産婦の乳の出をよくするためにも調理されたようです。
Matsuriを見ていただいていかがでしたか?お帰りになる前に床面をご覧ください。安曇野絵地図です。山に囲まれている安曇野ですが、実は川や道の向こうは海に続いているのです。狭い世界ではなく、広い広い世界へとつながる空間が安曇野なのです。そこにはいろいろな歴史や習俗や人々の思いが積み重なって、現在の安曇野を作り上げているのです。
信濃の国は十州に境を接し、そのまんなかに安曇野は位置します。当然、海はありませんが、その海のない安曇野で、船をかたどった山車を引き回す「オフネ」祭りが行われています。昔、安曇野は湖だった、そこをけやぶって水を海に流し、人が住めるようにしたという泉小太郎の伝説は、安曇野と海とのかかわりへと私たちの想像をかき立てます。安曇野は安曇野として孤立した狭い世界としてあるのではなく、海へ、そして世界へとつながっています。
常設展のテーマをMatsuriとローマ字であらわしたのも、そうした広い世界の人々とのつながりを考え、みなさんに「まつり」と読んで(呼んで)いただけることを意図したものです。Matsuriはムラの祭りだけではありません。日々の暮らしの安寧を願って、イエそれぞれでも折々にMatsuriが行われます。
ここに展示した様々なMatsuriをご覧いただき、安曇野という場所の歴史や人々の暮らしぶりや文化の深さなど、いろいろな面に関して何か感じていただければ幸いです。
皆さまのお越しをお待ちしております。